高い水準で復元された和歌山城

続いて昭和33年(1958)10月、和歌山城天守が完成した。設計したのは東京工業大学教授だった藤岡通夫氏で、残されていた平面図のほか、旧天守を設計した水島家に残っていた立面図や断面図、藤岡氏自身が焼失前の天守の細部を撮影した大量の写真などを、徹底的に解析したという。

和歌山城 本丸御殿跡から望む天守(写真=Saigen Jiro/CC-Zero/Wikimedia Commons

この天守は築造技術が未熟な古い石垣上に建てられ、1階平面がかなりいびつな不等辺四角形だ。しかし、二重目から上はゆがみが矯正され、かなり複雑な造形である。

そこで藤岡氏は、先に木造建築の結成図を作成。後年、「鉄筋コンクリート造の建物を最初から設計すると、木造としての制約を忘れて設計しかねない。(中略)面倒ではあったがまず木造として建物を設計し、それを下敷にして中身を鉄筋コンクリートに置き変える方式をとることにした」と回想している(『城と城下町』)。

こうしてていねいな作業が重ねられた結果、外観の再現度はかなり高い。しかし、和歌山城のような高い水準で外観が「復元」されることは、多くはなかった。

昭和34年(1959)4月に竣工した大垣城天守は、最上階の窓の形状が変更された。焼失前、最上階の窓には外側に漆喰が塗られた引き違いの土戸があり、全開にしても窓の半分は白い面で覆われていた。

しかし、「復元」天守では土戸が省略され、開口部を広くとってはめ殺しのガラス窓になった。眺望のよさを優先したのだ。また、破風は史実では確認できない金色の飾りで装飾された。大垣城では、より立派に見せることが優先されたのだ。

岡山城の復元工事で行われた暴挙

昭和34年(1959)10月には名古屋城天守が完成した。戦前の実測図のほか、ガラス乾板写真が多数残され、かなり正確な復元が可能で、おおむね実現されたが、細部に違いが生じた。目立つのは最上階の窓で、大垣城と同様に土戸があったのに再現せず、眺望を優先してはめ殺しのガラス窓にしてしまった。

また、一重目から四重目の窓はみな格子窓だが、やはり外側に土戸があり、閉めると外観は真っ白になった。じつは江戸時代は、これがすべて閉められていることが多かった。ところが土戸が省略されたため、いまの名古屋城天守は窓を閉め切っていても、全開時と同じ姿をしている。

少し遅れて昭和41年(1966)11月、岡山城と福山城の天守がほぼ同時に竣工した。

まず前者は、外観は旧状どおりという建前だが、イメージはだいぶ異なる。まず最上階は、戦前の天守はいまより白壁の面積が大きい。屋根の勾配も焼失前のほうが反りは大きく、躍動感があった。天守西側に付蔵する塩蔵の窓も増えてしまった。

岡山城復元天守(北西方向より)(写真=レゲマン/GFDL/Wikimedia Commons

だが、もっと大きな問題がある。天守台に穴蔵がなく、すなわち地階がないので、焼失前は西側の塩蔵が天守の入り口だったのだが、再建に際して石垣の南面を崩し、強引に地階をもうけて入り口にしてしまったのである。失われた文化財を再現するために、残された文化財を破壊し、史実と異なる姿に変更するという暴挙が行われたのだ。

最後に福山城だが、「復元」に際してプロポーションこそ再現されたが、すべての窓に巻きつけられていた銅板は省略され、最上階の窓の位置は大きく変更され、欄干は神社の橋のように朱色に塗られてしまった。

また、戦前までは、防御上の弱点である北側一面に鉄板が張られた唯一無二の天守だったが、これも省略され、戦前の姿とはまるで違う印象になっていた。

福山城天守(写真=Jnn/CC-BY-2.1-JP/Wikimedia Commons