大型の天守ほど消失した
7月29日には大垣城(岐阜県大垣市)の天守が焼けた。元和6年(1620)に大きく改修されたこの天守は、石田三成が関ヶ原合戦で大垣を拠点にしたとき、すでに建っていた可能性がある。8月2日の水戸空襲では徳川御三家の居城、水戸城(茨城県水戸市)の三階櫓(事実上の天守)が焼失。
そして8月6日、原子爆弾の爆風で広島城天守が倒壊した。毛利輝元が建てたその外観は、秀吉の大坂城を模したとされ、建築年代が岡山城より遡る可能性がある貴重な建築だった。とどめは8月8日の深夜で、広島県福山市が火の海となって福山城天守が焼失。元和8年(1622)に建てられ、合理的な構造をもつ天守の完成形といわれた建築だった。
現存12天守は小ぶりのものが多いが、戦争で失われた天守は大型で、価値も高いものが多かった。
現存12天守で県庁所在地にあるのは、松江城(島根県松江市)、松山城(愛媛県松山市)、高知城(高知県高知市)の3つだが、先の戦争で失われた天守は7棟のうち5棟が県庁所在地に存在した。
江戸時代に大藩の拠点で大型の天守が建ち、その後も大規模な都市であっただけに、米軍の標的になったのである。
なぜ木造ではなくコンクリート造なのか
だが、戦災で失われた天守7棟のうち、水戸城三階櫓を除く6棟は、戦後20年あまりのうちに再建された。戦前にはすでに、天守は地域のシンボルと認識されていた。だから、戦後復興の象徴として再建話が起こったのは自然なことだった。ただ、空襲などの記憶がまだ生々しい時期だったので、二度と焼失しないように、という願いから、耐火性能を意識して木造は避けられ、すべてが鉄筋コンクリートによる外観復元だった。
だが、外観「復元」といっても、どの天守も同じように「復元」されたわけではない。天守ごとに「出来」の差は小さくなかった。再建された順にみていきたい。
第1号は広島城天守で、昭和33年(1958)3月に竣工した。原爆で倒壊しただけに当初は地元の思いも複雑で、再建構想が持ち上がったとき、広島県文化財専門委員会では反対意見が多数を占めた。
「原爆で廃虚になった広島城の姿にこそ文化財としての価値がある」というのが、主な理由だったという。だが、最終的には前向きに再建する方向にまとまっている。
広島城の場合、戦前に国が作成した実測図が残っており、細部のデザインや寸法は古写真や同時代の建造物を参考にできた。結果、鉄筋コンクリート造ながら外壁には下見板など木材が張られ、とくに5階の外観は柱や軒裏の垂木、華灯窓まで木材でていねいに再現された。コンクリートを茶色く塗って木部に見せている「復元天守」も多いのである。
惜しむらくは、かつて南側の小天守(明治期に取り壊された)と連結していた廊下の切断面に下見板が張られ、窓がもうけられたこと。廊下を切断した面なので、戦前は白漆喰を塗ってふさいでいた。そこに板を張って窓までもうけると、最初から大天守が独立していたように見え、史実から遠ざかってしまう。