中途半端で終わった1990年代の政治改革

1993年衆院選で自民党が初めて野党に転落して非自民連立政権が誕生するまで、この国の政治は自民党が万年与党第1党、社会党が万年野党第1党の「自社体制」だった。両党はどちらも1955年に結集したため「55年体制」とも呼ばれてきた。

自社体制を支えてきたのは、当選枠が複数ある衆院選の中選挙区制度だった。例えば定数5の選挙区では、自民党は3、社会党は1、公明党は1の指定席を維持するケースが多かった。社会党や公明党には1議席を確実に守る組織票があった。

保守系新人は自民党公認を得られず、国会議員になるには無所属で出馬して保守票をむしり取り、自民現職3人のうちのひとりを自力で蹴落とすしかなかった。当選して初めて自民党から追加公認されたのだ。その過程で自民現職3人とは別の派閥の支援を受けた。自民党に常に4つ以上の派閥が存在してきたのはそのためである。中選挙区は与野党対決というよりも、自民党内の派閥同士の闘争の側面が強かったのだ。

一方、社会党は中選挙区に擁立する候補者を原則として現職一人に絞った。二人目に新人を擁立すると組織票が割れて共倒れになる恐れがあるからだ。全国の中選挙区で現職が確実に議席を維持し、野党第1党の座を守ることを最優先したのである。

万年野党と呼ばれた社会党

その結果、仮に全員が当選しても過半数には届かないことになった。衆院選がはじまる前から社会党の単独政権が誕生する可能性はゼロだった。ハナから「選挙による政権交代」をあきらめていたのだ。社会党が万年野党と呼ばれた最大の理由はここにある。

とはいえ、社会党は政策実現を放棄していたわけではない。社会党が最重視したのは、主力支持団体である自治労や日教組が求める「公務員の賃上げ」だった。野党第1党として与党第1党の自民党に常に「公務員の賃上げ」を求めてきたのである。自民党はその要求を簡単には受け入れてくれない。

村山富市・元首相(写真=内閣官房内閣広報室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

そこで登場するのが「国対政治」だった。自民党と社会党の国会対策委員長が、どの法案をいつ採決するかという国会運営を密室で協議するのである。

社会党は予算案や外交・安全保障などの重要法案に断固反対し「徹底抗戦」した。その裏側で自民党に「公務員の賃上げ」を迫り、それが受け入れられた時点で予算案や重要法案の採決に応じたのである。この裏取引こそ「国対政治」の真髄だった。

自民党は1993年衆院選で野党に転落した後、社会党の村山富市氏を首相に担ぐ「奇策」で政権復帰を果たしたが、村山氏は自民党と国会で裏取引を重ねた国対族議員の大物だった。だからこそ、自民党は安心して村山氏を首相に担ぐことができたのだ。