出張で髪を切っていたご婦人から「結婚はまだ?」
ある日、品のいいご婦人が女中さんを連れて「ライト」に来店した。電話予約の常連客だったが、店内を見回すと新入りのシツイさんを指名してきた。
「刈り上げにして欲しいと言われたんですが、昔の刈り上げはいまの刈り上げと違って、お金持ちしかやらない髪型でした」
その婦人は、その後も来店の度にシツイさんを指名するようになった。シツイさんが他の客にかかっていても、「あの女性を待ちますから」といって、シツイさんの手が空くのを待ってくれた。
よほどシツイさんが気に入ったのか、その婦人はシツイさんに出張を依頼するようになった。マスター(ライトでは親方と呼ばずに店主をマスターと呼んだ)に聞いてみると、前例はないけれど問題ないと許可してくれた。
「訪ねて行くと、女中さんが5、6人もいる大きなお屋敷でした。なぜかお屋敷の中に美容室があって、床屋の椅子が置いてありました。毎回、お茶とお菓子を出してくれて、可愛がってくれたんです。何回か出張するうちに、『あなた、まだ結婚しないの?』なんて聞かれるようになって、実家のほうからも、そろそろ結婚したほうがいいと言われていたんですが、なにしろ自分の店を持ちたいと思ってお金を貯めている最中だったから、結婚はずっと遅くでいいと思っていたんです」
夫婦で理容店を開業
シツイさんはご婦人の言葉をのらりくらりとかわしていたが、何度目かの出張の際に、ご婦人が直球勝負に出てきた。
「実は私の甥も同業(理容師)なんですよ。そろそろ結婚しなくてはならない年頃なんですけれどね……」
その甥っ子は大手商社の参事の息子で、母親を早くに亡くして継母に育てられたが、ひどい継子いじめに遭って家を出て理容師の資格を取り、おばであるご婦人の元に身を寄せているという話だった。
「おばさんに呼ばれて奥から出てきて、『こんにちは、僕も同じ商売なんですよ』なんて仕事の話をちょっとしたぐらいでね……」
親に手紙で知らせると、トントン拍子に話が進んだ。
「床屋仲間とは、動作から何からちょっと雰囲気が違う人でしたね」
こうしてシツイさんは、箱石二郎さんと結婚をすることになった。シツイさんは22歳、二郎さんは24歳である。
シツイさんが開店資金として貯めていた200円を出し、二郎さんがその半分の100円を出して、昭和14年、新宿の下落合に「ヒカリ理容店」を開店した。「ライト」で修業したから「ヒカリ」、というわけだ。