「兄弟の不平等」はあっていいのか

二人の男の子を持つお母さんが、ある日こんなことを言いました。

「お兄ちゃんを見てあげられなくて、本当にかわいそう」

まだ幼い弟さんに手がかかってお兄ちゃんに手が回らないことを、そのお母さんは悩まれていました。

私がそのとき伝えたことは二つ。一つは、「かわいそうと思ってはいけない」ということです。思った瞬間、それは本人に伝わってしまうからです。

親に「かわいそう」だと思われている子が、幸せを感じられるでしょうか? おそらく逆でしょう。「僕は親にかわいそうだと思われるような、不幸な人間なんだ」と。

私に言わせれば、お兄ちゃんはまったくかわいそうではありません。親に世話をしてもらえないぶん、生活力がついて自立が促進されるからです。

そしてもう一つ、お母さんに伝えたのは、「兄弟間の不平等」は気にしなくていい、ということです。

写真=iStock.com/kohei_hara
※写真はイメージです

「自分はラッキーだ」と思わせる声がけを

年齢によっても、手のかかり具合によっても、関わりに濃淡が出るのは当たり前。兄弟に差をつけてはいけない、などと思わなくていいのです。

そこを理解すると、兄弟それぞれにかける言葉も変わってくるはずです。お兄ちゃんには、「ラッキーだね! 小さい弟がいると、将来子供ができたとき、きっと上手に子育てできるよ」と言えますし、弟にも、「ラッキーだね! いいお兄ちゃんがいてよかったね」と言えるでしょう。

子供は素直なので「かわいそう」だと言われれば「僕はかわいそう」と思うし、「ラッキーだね」と言われれば「僕はラッキーだ」と思うもの。親から言われたことそのままの自分像を持つのです。

とすると、「ラッキー」はまさにマジックワード。「自分はラッキーだ」という認知を持って生きると、それからの人生でどのような困難に出合っても、そこにラッキーな要素を見つけようとしますし、見つけるのが上手になります。

はたから見ると「それのどこがラッキーなんだ」と言いたくなるようなロジックをたてることもあるでしょう。しかしそれによって困難を乗り越えられるのですから、何ら問題ありません。

その素地を今からつくってあげるのが、親の役目です。通常ならネガティブだと思われる状況でも、まず「ラッキー!」と口にだし、理由は後から無理やりにでもくっつければいいのです。「かわいそう」と言われて育つより、はるかにいい人生が送れること間違いなしです。