道長が託した「二つの意味」

意味するものは二つ。その一つは、今しがた道長ら五人がみ交わした盃――「さか“づき”」の洒落しゃれである。土器かわらけは丸く、欠けていない。いや、それもあるが、何より五人の結束が固く、欠けていない。道長は、政界の重鎮たちが若い頼通を迎え入れて盛り立ててくれるさまに、この世の円満を感じたのだ。

山本淳子『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか』(朝日新聞出版)

そしてもう一つは、今夜の主役、「后」である。「后」は文学の世界でしばしば月にたとえられてきた。その后(太皇太后、皇太后、中宮)の席を、道長家の娘たちはすべて満たした。いや、実際にはもう一人、故三条院の妻である娍子も皇后なのだが、それはいておこう。后の席は娘たちで満席、これは月も月、満月だ――道長は二つの洒落で、〈我が人生最高の時〉を喜んだのである。

思えば、かつて同じように我が人生の到達を歌に詠んで喜んだ人物がいた。外孫・清和せいわ天皇(850〜80)のもとで史上最初の人臣摂政となった藤原良房である。彼は天皇の母后である我が娘・明子あきらけいこの前に置かれた桜を見て、こう詠んだ。

年ふれば よはひはいぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ものおもひも無し
(年の経つままに、私は老いてしまった。それでも桜の花を見ると――母后となって花を咲かせたお前を見ると――何の悩みもないことよ)
(『古今和歌集こきんわかしゅう』春上 五二番)

実物の桜は必ず散り、人の心を悩ませる。しかし后となった明子と、娘のおかげで摂政となった良房の栄華は、咲き誇って散ることがない。

夜空の月は欠けても、一族の栄華は満ち足りている

道長の和歌も同じである。実物の月は必ず欠けるし、実際十六日の当夜には欠けていた。だが、道長にとっての二つの月――息子を中心としての政界の円満と、娘たちの名誉ある位とは、満ち足りてこれからも輝き続ける。道長は百五十余年前の父祖・良房に肩を並べたのだ。

道長の和歌を聞いた実資は彼の思いを理解した。そして自らは返歌を詠まず、「この和歌を唱和しよう」と一同に呼びかけた。一同にとっても政界の円満は“我がこと”である。皆は何度もこの歌を唱和し、道長は満悦の様子で見守った。その夜深く、皆がすっかり酔って土御門殿を後にした時も、十六日の月は空に明るく照り映えていた。

ちなみに、その土御門殿があったのは現在の京都御苑地内。今は京都迎賓館が美しいたたずまいを見せる場所である。

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