既得権益を守ろうとする両替商と戦う気骨があった

これにも両替商らは反対した。だが1枚が1両の8分の1という金額の手頃さ、金貨(1両小判)より小型で軽量、そして何よりも秤量銀貨である丁銀のように重量をいちいち量る手間もいらないなど、使い勝手もよかった。そのため、南鐐二朱銀の流通は徐々に拡大するようになっていく。これは結果的に金融緩和効果も生むこととなった。

この経過から、2つのポイントが見えてくる。

第一は、意次は賄賂を受け取るなど商人と癒着していたとのイメージが強いが、通貨政策に関する限りは、既得権益を守ろうとする両替商などと闘っていたということだ。改革を進めるためには、いかにして既得権益を打破するかがカギとなる。これは現代でも変わらない。

第二のポイントは、江戸時代で初めて通貨の一元化という金融政策を打ち出したことだ。南鐐二朱銀の発行には「出目を得る」という動機があったが、それでも金貨と銀貨の交換レート固定化を打ち出したことは、従来の通貨制度を改革するという明確な意思があったと見ることができる。同時にそれは、近代化への端緒を開いたという点でも重要だ。ここにも、意次の先見性が表れている。

「田沼意次像」18世紀(画像=牧之原市史料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

対外政策でも画期的な蝦夷地開発プロジェクトを立ち上げた

意次は対外政策でも、従来の幕府には見られなかった積極策を打ち出している。蝦夷地開発とロシア貿易の試みである。

当時、ロシアは千島列島に沿って南下を進めており、安永7年(1778)にはロシア船が納沙布のさっぷ岬まで進出し、松前藩に交易を要求する事件が起きていた。幕府はこうした動きに対応することが必要になっていた。

経済的にも、2つの要因から蝦夷地へのニーズが高まっていた。

一つは、関西地方で盛んになっていた綿栽培の金肥(おカネを出して購入する肥料)の原料として、蝦夷地産のにしんますの脂を絞った〆粕しめかすへの需要が高まっていたこと。国民的衣料となっていた木綿の原料である綿の栽培は重要産業の一つに発展しており、それを支える肥料の供給地として蝦夷地がクローズアップされてきたのだ。

もう一つは中国で高級料理用としてナマコ、アワビ、ふかひれなどの「俵物たわらもの」への需要が増大し、幕府が輸出に力を入れたことだ。その産地として蝦夷地が注目されるようになっていた。