「このまま放置すれば蝦夷地をロシアに奪われてしまう」

意次が動くきっかけとなったのは天明3年(1783)、仙台藩の江戸詰め藩医で蘭学者でもあった工藤平助が『赤蝦夷風説考』を著し、意次に献上したことだった。

平助は『赤蝦夷風説考』で、ロシアという国の地理と歴史、特に南下の実情を説明して、このまま放置すれば蝦夷地をロシアに奪われてしまうと警鐘を鳴らした。そのうえで蝦夷地を開発してロシアと交易し、日本の富国を図るべきだと提言した。

これを読んだ意次は、勘定奉行の松本秀持ひでもちに検討を命じた。松本は平助をたびたび呼んで蝦夷地開発の具体策について意見を聴くなどして幕府の方針をまとめた。その内容は、蝦夷地で鉱山開発を進め、そこで産出される金銀銅をもとにロシアと交易し利益を得ることをめざすというもので、まずは調査団を派遣することになった。

天明5年、幕府から派遣された10人はまず松前に向かい、同地で松前藩の案内役の藩士や医師、通詞などと合流、東蝦夷調査隊と西蝦夷調査隊の二手に分かれて松前を出発した。東調査隊は東蝦夷から国後島まで渡り、西調査隊は西蝦夷から樺太までへ行っている。

鎖国中だがロシアとの平和的な交易も考えていた

このような調査は幕府始まって以来の歴史的なものだった。10カ月近くに及ぶ調査を行った調査団は翌天明6年2月に報告書を松本に提出したが、そこには広大な新田開発案が示されていた。蝦夷地本島の10分の1の土地で新田開発が可能とし、その石高は、単位面積当たりの収穫量を内地の半分と仮定して583万石にのぼると推計している。当時の幕府の石高400万石余りより多いことになり、日本全体の約3000万石の20%に相当する計算になる。

何とも壮大な開発構想だが、これはさすがに現実的なものではなかった。結局その年の8月、意次が失脚したため、蝦夷地開発計画も中止となった。

それでも、蝦夷地の実情を把握したことの意義は大きく、その成果は後に活かされることとなる。

意次が蝦夷地開発とロシアとの交易を計画していたことは、長崎貿易の積極姿勢や蘭学の奨励なども併せて考えると、今で言うグローバルな視野も持っていたと解釈できる。事実上「開国」の第一歩となったかもしれなかったのである。