天明の大飢饉で財政難に陥った大名を救おうとしたが……

だが、田沼政権の末期になると、構造改革の推進力にはかげりも見え始めていた。

天明6年(1786)の貸金会所構想の頓挫とんざはその一例だ。構想の内容は、まず全国の寺社や農民、町人に各身分に応じて5年間、御用金として拠出させ、それに幕府も出資して大坂に貸金会所を設立する。貸金会所は、融資を希望する大名に年7%の金利で貸し付け、農民や町人が拠出した資金は5年後に利子をつけて償還する、というものだ。

これは、当時起きていた天明の大飢饉ききんの影響などで財政難に陥った大名の救済が主な目的だった。7%の貸出金利は当時としては低かったため大名にとって借りやすかったし、拠出した御用金は5年後には利子付きで戻ってくるというメリットがあった。現在の国債を先取りするような仕組みで、先進的だったと言える。

だが、農民や町人たちの目には、負担増加としか映らなかった。結局、この構想は実現する前に中止に追い込まれた。

そして田沼時代は突然終焉しゅうえんを迎えることとなる。

貸金会所構想が頓挫した天明6年の8月27日、意次は老中免職となったのである。形としては本人が病気を理由に老中の辞職を願い出たことになっているが、事実上の罷免だった。

なぜ意次は将軍の死と共に失脚し、政策が否定されたのか

実はその2日前の8月25日に将軍・家治が亡くなっている。公表されたのは9月8日で、将軍の死を秘匿している間に罷免されたことになり、きわめて不自然だ。将軍の死という機会をとらえた意次追い落とし、一種のクーデターだったのだ。

それだけでは済まなかった。意次はその後二度にわたる減封処分と隠居・謹慎を命ぜられ、田沼家は1万石で陸奥信夫郡下村(現・福島市)に転封となった。意次は天明8年、失意のうちに江戸で死去する。70歳だった。

岡田晃『徳川幕府の経済政策 その光と影』(PHP新書)
岡田晃『徳川幕府の経済政策 その光と影』(PHP新書)

ではなぜ意次は失脚し、その政策が否定されたのか。それはまさしく、意次の政策が当時の武士の伝統的な価値観、特に譜代大名など門閥層の利害と相容れない大胆な改革だったからだ。これに意次の異例の出世への嫉妬も重なり、天明の大飢饉など打ち続く自然災害も「田沼の悪政が原因」とされた。

賄賂政治家との悪評が広がったのも、そのことが一因となっている。最近ではかなり再評価が進んでいるが、それでもまだ汚名が十分に返上されたとは言えない状態だ。

これまで見てきたように、意次の政策は時代を先取りしたものが多く、時代の歯車を前へ進めようとするものだったのである。それは、行き詰まりを見せていた「米本位制」という経済構造を変える可能性を持っていた。

もし田沼時代がもっと長く続いていたら、あるいはもし意次の政策が次の政権に引き継がれていたら、日本の近代化や開国はもっと早く始まっていたかもしれない。

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