ドラマ「大奥」(フジテレビ系)に登場する老中・田沼意次(安田顕)は、実際にどんな政治を行ったのか。江戸時代の経済政策について研究する経済評論家の岡田晃さんは「意次は、商業を重視し近代化につながる構造改革を進めたが、幕閣で反発を招き、将軍・徳川家治が亡くなったとたん、全ての権限を取り上げられた」という――。

※本稿は、岡田晃『徳川幕府の経済政策 その光と影』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

老中首座になった田沼は「通貨の一元化」を目指した

吉宗は金融引き締めから金融緩和に転換したが、意次は新たな金貨鋳造は行わず、吉宗後半期の金融緩和政策を継続した。

注目されるのは、新たに明和めいわもんめ銀、南鐐なんりょう二朱銀という二種類の新しい銀貨を鋳造したことだ。

「南鐐二朱銀」
「南鐐二朱銀」江戸時代・明和9年~天明8年(1772~88)/寛政12年~文政6年(1800~23)、東京国立博物館蔵(出典=国立文化財機構所蔵品統合検索システム

江戸時代の通貨は、当初は「金1両=銀50匁=銭4貫文」が公式レートとなっていた。だが実際には、主として江戸など東日本では金、大坂など西日本では銀を中心に取引され、金と銀の交換レートは日々変動していた。趨勢すうせいとしては金高・銀安の傾向が続き、元禄時代に公式レートが「金1両=銀60匁」に改定されたが、それも一つの目安であり、銀はさらに安くなることも多かった。

だが商品経済の発展によって経済圏が全国単一化するにつれて、こうした各通貨がバラバラな状態は、弊害が目立つようになっていた。

そこで幕府はまず、明和2年(1765)に明和五匁銀の鋳造を開始した。その特徴は、表面に「銀五匁」と表記されたことだ。それまでの江戸時代の銀貨にはその単位価値が表記されておらず、重量(量目)によって価値が決まる秤量銀貨だったが、ここに初めて単位価値が明記されたのだ。これは計数貨幣と呼ばれる。これにより、五匁銀12枚で金1両とし、「金1両=銀60匁」という公式レート通りに金貨と連動させたのだった。

一両小判との交換数値を刻んだ新しい銀貨「南鐐二朱銀」を鋳造

大石慎三郎氏は「(田沼時代には)米遣い経済社会というより銭(貨幣)遣い経済社会に移行していた。(中略)このような時代の要求に応えるものとして打ち出されたのが、通貨銀を通貨金に直接的に連動させた明和五匁銀であった」と、その意義を強調している(同氏『田沼意次の時代』)。

ところがこれに両替商たちが強く反発した。彼らは金と銀の交換レートの変動を利用して利ザヤを稼いでいたからだ。このため明和五匁銀はほとんど流通しなかった。

しかし意次はあきらめなかった。その7年後の明和9年、今度は南鐐二朱銀という新たな銀貨を発行した。

その表面には「以南鐐八片換小判一両」、南鐐二朱銀8枚で小判(金)1両に交換すると刻印が打たれている。当時、二朱判という金貨が流通しており、その8枚が小判1枚(1両)に相当した。したがって南鐐二朱銀に、金貨である二朱判と全く同じ価値を持たせたのだ。しかも、「朱」は金貨の通貨単位であり、それを銀貨の名称に使った。通貨の一元化をさらに前進させたのである。