ちょっと辛くっても頑張っている姿を見せる

どういうことかというと、私にしても、健康だなんてとんでもないことで、体は言うことを聞かなくなっているし、耳は聞こえにくい。

男性特有の前立腺肥大もあれば、前歯は1本抜けて差し歯をしている身です。加えて、少し前にはHSP(感覚が鋭く、感受性が強い気質)からくる精神的な疾患も経験しました。

それなのに、自分よりずっと若い人たちからの、「あちこち痛みだした」「心が苦しい」といった相談を受けて、カウンセリングや健康指導をしています。

相談者の中にはストレスの多い重職に就いている方もいますが、私と話し終えると「心が晴れた」と、サッパリとした明るい顔で仕事に戻る人が大半です。

そうやって相談に乗って人を元気にしてあげられるのは、自分の「老い」や「辛さ」「至らなさ」を認めたうえで、医師として心身を明るく若く保つために最適な生活習慣を試行錯誤し、自分にできることを実践してきたからだと思うのです。

こうして本を書けているのも、そんな地道なことをやってきた副産物のようなものでしょう。

今を明るく生きている人を見ると、総じて、大きな功績があったとかなかったとかは、あまり関係がないようです。

失敗も、辛いことも経験してきた。けれど、元気に生きている! その事実だけで十分だと思えます。その事実があれば、必ず誰かのために何かをしたり、生きているだけで、誰かの手本となったりすることがあるのです。

「遠い親戚よりも、近くの他人」なんて言葉もありますね。遠い国の偉人より、近くにいるあなたが、ちょっと辛くっても頑張っている姿を見せること、それが後輩や周りの人たちにとっては恰好の教え、宝となるのです。

「ああ、あのときの先輩は立派だったなぁ、すごい人だったのだなぁ」と。

写真=iStock.com/Wavebreakmedia
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勝手に自分の基準で他人を羨み、自分を貶めている

人間なら誰でも、嫉妬することがあるものです。自分より幸福そうな人を見れば、「私は不幸だ」と思ったり、自分より不幸そうな人を見れば、「私は幸福だ」と思ったりするでしょう。

70年間生きてきた人は70年分の人生経験があるし、80年間生きてきた人は、やはり他人とは違う80年分の蓄積があります。

それは他人と比較して、どちらが優れている、劣っている、などと他人が勝手な基準で評価できるものではありません。

ところが、私たちは「あの人は会社で重役にまでなった人だから、今も重きをなしていて引く手あまただ」とか、「娘も孫もいて、たくさんの人々から慕われている」なんて、誰も何も言っていないのに(本当は違うかもしれないのに!)、勝手に自分の基準で他人を羨み、自分を貶めているのです。

これでは、みじめな気持ちになり、心を病んでしまうことにもなりかねません。

とくに最近はSNS全盛ですから、他人の「こんなに楽しい経験をした」「家族にこんな素敵なものをもらった」「皆に祝ってもらった」などといった賑やかで幸せそうな投稿が、嫌でも目に入ってきます。

それを見るたびに、「あいつはいいな」「自分は孤独だな」と落ち込んでしまう。でも、本当のところはどうだかわかりませんよ。

内心は大して嬉しくもないけれども、祝ってくれた相手に失礼にならないように気を遣って、しぶしぶ大袈裟に喜んで見せているだけかもしれません。

他人や自分を評価するのは、自分自身です。相手や自分のことを間違って評価してしまっていることがある――それを忘れないでほしいのです。