アメリカの名門メイヨークリニックの「ポスドク」へ

ところが、しばらくするとがん研にも飽き足らなくなった。がん研は日本で最先端の研究機関である。英文の論文を精読するうちに、アメリカはもっと先を行っていることに気がついたのだ。

「私はこういう実験をしていてこういうテク(ニック=技術)もある。論文も書いている。あなたの研究室で働きたいという手紙を3カ所に出しました。そうしたら全部からインタビュー(面接)をするから来なさいと」

アメリカの面接は日本とは全く勝手が違っていた。

「日本では候補者の学生をトップの教授が一対一で審査する。一方、アメリカは教授の他、ラボ(研究室)のチーム全員と話をさせるんです。チームには基礎(医学)の研究者、臨床の先生、創薬の人間と色んな専門家がいる。彼らが応募者をチームに入れても大丈夫かという最終判断をするんです」

中村は面接を受けたすべての研究室から来てほしいという連絡をもらった。その中からメイヨークリニックを選んだのは、先方の熱意を感じたからだ。

「ぼくはあまり英語が得意ではなかったんです。論文は英語で書きますけれど、会話はまた別。そうしたら我々はこんなことをしているとホワイトボードに絵を描いて説明してくれた。本当に来てほしいんだなという気持ちが伝わってきました」

メイヨークリニックは、ミネソタ州ロチェスター市を本拠地とする世界屈指の医療機関である。研究室を率いていたのはイギリス人のステファン・J・ラッセル。中村はこの研究室の「博士研究員」となった。博士研究員とは“ポスドク”――大学院後期課程修了者の任期付き研究職である。

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「言葉は悪いですけれど、日本ではポスドクは何の保証もない高学歴フリーターみたいな扱い。一方、アメリカの博士研究員は研究者の登竜門として地位が確立されている。しっかりした業績と研究者としての資質を見せれば独立した研究者になれる」

伝統とノウハウに猛烈ハードワークで飛躍

業績とは論文である。論文には“格付け”がある。数多あるどの学術雑誌――ジャーナルに掲載されるか。論文には複数の研究者が関わる。何番目の執筆者なのか。

「ラボには長年蓄積されたノウハウがありました。そこに私の無尽蔵なマンパワー、ハードワークがマッチして、日本で言う“トップジャーナル”にファースト(一番目の)執筆者として次々と論文を出しました。業績を上げれば上げるほど給料も高くなっていく」

渡米2年後の2004年、中村はリサーチアソシエイトに昇格している。

当時、ロチェスター市の人口は約8万人。病院しかない街でしたと振り返る。冬になるとマイナス30度にまで下がり、外出もままならない。これまで以上に研究に没頭できる環境でもあった。このロチェスター市で第一子に恵まれた。

「自分の中ではメイヨーで(仕事の)ペースを落としたつもりでした。それでもアメリカ人に言わせると、お前は子どもが生まれたのになぜ研究室にいるんだ、クレイジーだと。みんなから帰れと言われて、強制的に1週間休まされたこともありました」