当初の寝台料金は東京の旅館1泊よりも安かった

この時代、国鉄の運賃および料金は国鉄自身が自由に設定できるものではなかった。基幹となる運賃は国会の承認が必要だった。そのうえで運輸大臣(現在の国土交通大臣に相当)が認可する方式だった。また、料金は国鉄が骨子を作成、これを運輸大臣が承認した。

こうした制度上の違いはあったものの、1970年代、比較的安易に実施されたのが料金改定だった。1974(昭和49)年に導入が始まった2段式のB寝台は当初1900円だったが、1975(昭和50)年11月には3000円、翌1976(昭和51)年11月には4000円となった。

さらに1978(昭和53)年10月には4500円、1981(昭和56)年4月に5000円、1982(昭和57)年4月に5500円、1984(昭和59)年4月には6000円となってしまう。わずか10年で3倍超になってしまったのだ。

ちなみに東京・新橋界隈の日本観光旅館連盟に属す一般的な旅館で見ると、1974年ごろは1泊2500〜3500円、1984(昭和59)年ごろは4000〜7000円と2倍ぐらいに宿泊料金が値上がりしている。

両者の価格を比較すると、当初、旅館より安く泊まれたブルートレインだったが、10年間で旅館並みか旅館以上の価格となってしまったのだ。

度重なる値上げで起こった「ブルートレイン離れ」

国鉄の値上げは料金に留まらず、抜本的な運賃にも矛先が向いた。国鉄経営を支援するという建前で1977(昭和52)年12月には「国有鉄道運賃法」が改正され、国鉄では物価等の変動による経費増加見込額を限度として運賃を設定、それが運輸大臣の認可を受けられれば運賃改定ができるとされた。結果として1970年代後半からは運賃と料金がセットで改定されるようになる。

この度重なる運賃と料金の改定により、国鉄から利用者離れが起こる。当然、国鉄側も値上げすれば利用が減ることは想定していたが、値上げ幅で減少分をカバーできると踏んでいたのだ。しかし、事態は国鉄の予想を上回った。寝ている間に目的地に移動できる便利なブルートレインだったが、さすがにこの値上げによる影響は大きく、乗客のブルートレイン離れが進んでしまうのだ。