「わたし」は常に「われわれ」に支えられている

このような「できなさ」、単独行為不可能性は必ずしもネガティブな意味のみを持つわけではありません。

いま、マルチエージェントシステムを、「わたし」を含んだ多数のエージェントからなる存在であるという意味で「われわれ」と呼びましょう。すると「わたし」は生きて身体行為をしている限り、つねに、その都度、成り立つ「われわれ」の一員として、「われわれ」に支えられてあることになります。

このように、単独行為不可能性は、「わたし」が生きて行為をしている限り、つねに「われわれ」と共にあることを意味しています。

もちろん、「わたし」がどのような行為をしているかによって、その都度の「われわれ」も変わります。しかしいずれせよ、「わたし」のまわりにはつねに何からの「われわれ」がいてくれるのです。「わたし」にとって「われわれ」は着脱可能な衣装のような存在ではありません。

言い換えると、すべての「われわれ」を脱ぎ捨てても存在する「裸のわたし」なるものは単なる幻想です。「われわれ」は「わたし」にとって不可逃脱的な存在なのです。

このように、単独行為不可能性としての「できなさ」は、「わたし」がつねに既に必ず「われわれ」の一員としてあり、「われわれ」に支えられてあることを意味しています。それは、このようなポジティブな事態を指し示しているという意味で、それは、「われわれ」に対して開かれた「できなさ」だったのです。

何かを「できない」ことはかけがえのないこと

このような単独行為不可能性を抱えた「わたし」はまた、マルチエージェントシステムとしての「われわれ」にとって「かけがえのない」存在でもあります。「わたし」がいなければ、それを支える「われわれ」は、そもそも、存在しようがないのです。

マルチエージェントシステムは、「わたし」が存在しなければ雲散霧消してしまうのです。

出口康夫『AI親友論』(徳間書店)

この意味で、「わたし」は「かけがえのない」存在です。このような「わたし」の、「われわれ」にとっての「かけがえのなさ」は、「わたし」の「できること」とは無縁です。

「わたし」は、何かができたり、何かの能力を持っているから、「われわれ」にとってかけがえのない存在なのではありません。むしろ逆に、「わたし」は一人では何もできないからこそ、「われわれ」を成立させ、その「われわれ」にとって「かけがえのない」存在となっているのです。

そして、このような「わたし」の「かけがえのなさ」は、「わたし」が生きて行為をしている限り失われることはありません。天涯孤独な「わたし」であっても、大した取り柄のない「わたし」でも、みんな、この「できなさ」としての「かけがえのなさ」を持ち、それを失うことはありません。「できなさ」としての「かけがえのなさ」を持たない人は、誰もいないのです。

「わたし」は「できる」から「かけがえがない」のではありません。「できない」からこそ「かけがえがない」のです。

このような「できなさ」としての「かけがえのなさ」は、どのような凌駕機能体が現れても失われることはありません。たとえ「わたし」より、より「できない」存在がいたとしても、「わたし」が「わたし」なりのできなさを抱えている以上、「わたし」は「わたし」の「われわれ」にとって「かけがえのない」存在であることには変わりがないのです。

ここでは人間失業は起こりません。逆に言えば、機能主義的人間観を捨てて、人間を単独行為不可能性を抱えた「できない」存在と見なすことが人間失業を防ぐ一つの手立てとなりうるのです。

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