他の「できること」に尊厳を求めても問題は解決しない
例えば、人間の尊厳や「かけがえのなさ」を「知的にできること」から別の「できること」に置き換えるという方策も考えられています。「知的能力」が凌駕されてしまったのであれば、まだ凌駕されていない他の「できること」に「かけがえのなさ」を求めればいいというわけです。
しかし、他者の気持ちに共感できること、コミュニケーションをとれること、感情を抱けること……どのような能力や機能であっても、それらはたかだか有限であることに変わりありません。それらを超える凌駕機能体は原理的に存在する可能性があるのです。単に人間の尊厳を「知的にできること」に置くことをやめるというのでは不十分なのです。将来そのような機能体が出現した場合、やはり人間失業は避けられません。
例えば、人間より優れた共感能力を備えたロボットや、肉体や意識を伴った人工生命が生み出された場合、凌駕機能体が現実のものとなり、共感能力という最後の砦が陥落する事態が起こるのです。
人間の「かけがえのなさ」を何らかの「できること」に置く以上、それらを凌駕する凌駕機能体が生み出され、「かけがえのなさ」が奪われてしまう未来はいずれにせよやってくるのです。
無能な人を理想とする思想
人間の尊厳や「かけがえのなさ」を「できること」に置く発想の背後には、西洋哲学で長らく幅を利かせてきた「機能主義的人間観」が控えています。
機能主義的人間観とは、人間を、知性・感情・意志といった複数の機能の「束」と捉える考えです。これらの機能のうち、何が支配的で一番重要かは哲学者によって意見が分かれます。
例えば、デカルトやカントやヘーゲルは知性や理性が一番重要だと考えました。それに対して感情こそが主人公だと言ったのがヒュームやフォイエルバッハ、いやいや一番の支配者は意志だと主張したのがショーペンハウワーやニーチェです。
機能とは「何かができる能力」です。人間を機能の束として捉えるとは、人間を「できること」の束と見なすこと、「できる存在」とすることに他ならないのです。
一方、例えば東アジアには、「できる」人間ではなく、むしろ「できない」人間、無能な人を理想とする「聖なる愚者」とでも呼べる思想伝統があります。例としては、老子の「混沌たる愚者」、法華経の「常不軽菩薩」、宮沢賢治の「デクノボー」などがあげられます。
以下では、このような伝統を踏まえ、人間の尊厳や「かけがえのなさ」を「できること」に置くこと自体を自明視せず、それに対して疑問を投げかけ、それに対するオルタナティブを探ること。「できること」ではなく、「できなさ」を基軸に据えた人間観、そして「できなさ」にこそ、人間の尊厳や「かけがえのなさ」があるとする考えを、提案し、素描してみたいのです。