人間の持つ二つの「根源的なできなさ」

ここで僕が着目するのは、「わたし」=個人としての人間は、「自分一人では何もできない」ということ、そして自分の行為を支えてくれる数多くのエージェントのうち、どれ一つをも「完全にはコントロールすることができない」ということ。これら二つの「できなさ」です。僕は前者の「できなさ」を、「単独行為不可能性」、後者を「完全制御不可能性」と呼んでいます。

この二つの「できなさ」は、人間であれば誰にでも備わっており、そこから逃れる術がないという意味で「根源的なできなさ」を持っています。いや、人間のみではなく、AIやロボットを含めたすべての人工物、すべての自然物、この世のありとあらゆるエージェントに備わった「普遍的なできなさ」でもあります。

一人でできないことは世の中に数多くあります。例えば、チームプレーである野球やハーモニーを楽しむ合唱といった集団行為は、当然ながら一人ではできません。一方、ランニングや独唱といった一人でできる行為、すなわち「単独行為」もたくさんあるように思えます。本当に僕らはランニングや独唱ですら一人でできないと言えるのでしょうか。

「自転車に乗る」ことも一人ではできない

いま、自転車乗りという、これまた一見、単独行為と思えるケースに即して、考えてみましょう。

自転車に乗るイメージ
写真=iStock.com/lzf
※写真はイメージです

確かに自転車に乗ってペダルを漕いでいるのは「わたし」一人です。でも、そもそも自転車がないと、自転車乗りという行為は成立しません。

それだけではありません。自転車が走る道路がないと「わたし」は自転車を上手く走らせることができません。信号や横断歩道などの交通インフラも必要でしょう。

また、適切な大気圧や重力がなければ、「わたし」はフラフラと宙に浮いてしまい、自転車を漕ぐどころではなくなってしまいます。さらに、何百年か前に、誰かが自転車を発明していなければ、「わたし」が今日、自転車に乗ることもなかったでしょう。

加えて、自転車が製造されて販売されていなければ、わたしの自転車乗りもこれまた成り立たなかったはずです。

「わたし」の自転車乗りという行為には、多くの人々、生物、無生物、自然環境、生態系、社会システム、歴史上の出来事といった多種多様のエージェントが関わっているのです。そして、それらの支え、助け、アフォードがなければ、「わたし」の自転車乗りという行為は遂行できないのです。

言い換えると、これら多種多様で無数のエージェントからなるシステム――これを「マルチエージェントシステム」と呼びましょう――がなければ、自転車乗りという行為は成立しないのです。

もちろん「わたし」は、この自転車乗りという行為にとって欠かせないエージェントです。でも今、お話ししたように「わたし」だけでは、自転車乗りという行為は成り立ちません。「わたし」は、行為にとって「必要なエージェント」であっても、「わたし」さえいれば行為が十分に成り立つという意味での「十分なエージェント」ではないのです。

同じことは自転車にも、道路にも、上で列挙した、その他の多くのエージェントについても言えます。それらの各々も、必要なエージェントではあっても、十分なエージェントではなかったのです。

以上のことは自転車乗り以外のすべての身体行為、例えば、ランニングや独唱についても成り立ちます。

「わたし」は一人では何もできない存在なのです。単独行為は不可能なのです。