「人生には何らかの意味がある」という病気が発症

幼児はどんどん成長して、そのうち指示対象がはっきりしない、あるいは指示対象がないコトバを覚えるだろう。「国家」「正義」「平和」などだ。「人生」もこういったコトバの1つだ。

指示対象を持つコトバに慣れ親しんでいる人は、少なからぬ確率で、コトバは何であれ、誰にとってもほぼ同じ意味を持つという幻想にとらわれてしまう。「意味という病」の始まりである。

「人生」というコトバは、指し示す具体的な対象を持たないので、このコトバを聞いたときに頭の中に思い浮かべる想念は人それぞれ異なる。もし「人生」が具体的な対象を指し示すコトバであれば、お互いに「あれは人生かな」「あれは人生じゃないよね」と指示しあって、同じ対象を指すコトバとして収斂しゅうれんしてくるだろう。

しかし「人生」というコトバはそうではない。ところが、コトバは何らかの対象を指し示すはずだと信じていると、指示対象が外部世界になくとも、「人生」はある同一性をはらんだ概 念を意味するに違いないというドクサ(臆見)にとらわれてしまう。

人間は優れて社会的な動物であり、幼児は独りでは生きていけず、両親などの大人に助けられて育つ。そのプロセスで、社会の習慣や価値観を覚えて、社会から疎外されないようにふるまうようになっていく。最初はただの模倣であって、大人の真似をすればほめられて楽しいというだけで、そこに何らかの意味があるわけではない。

ここでいう意味とは、冒頭に述べた広辞苑の2の解釈、すなわち「物事が他との連関において持つ価値や重要さ」のことだ。

物心がついて自我が芽生えるようになると、「人生」を他の概念と結びつけて、その価値や重要さを考えるようになる(まあ、私のようにそうならない人もいるけれどね)。「人生には何らかの意味がある」という病気が発症するわけだ。

多くの場合、意味の内容は、この人が育った共同体の価値観に沿ったものとなるだろう。現在、ウクライナとロシア、ハマスとイスラエルが戦争状態にあるが、例えば、ハマスの過激派の人生の意味は「己の命を懸けてもイスラエルを倒す」ことであり、イスラエルの過激派の人生の意味は「ハマスを殲滅せんめつ」することにあるわけで、これでは戦争になるのは避けられない。

日本でも、太平洋戦争の末期には「神風特攻隊」という自爆攻撃が行われたわけで、特攻機を操縦して死地に赴いていた若い特攻隊員の胸中には「己の人生の意味は何なのか」という問いが渦巻いていたのかもしれない。あるいは「己の人生の意味は国のために死ぬことだ」と固く信じて(あるいは信じたふりをして)、雑念を振りほどいて敵艦に突入した人もいたかもしれない。

「人生の意味」が「死ぬこと」と言うのは矛盾していると思うけれど、何をもって「人生の意味」と考えるかは人それぞれなので、そういう人がいてもおかしくないが、「人生の意味」が千差万別ということは、不変で普遍な人生の意味なんてないという何よりの証である。

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