佐竹軍は統制を欠き苦戦、上杉軍に救われた
また、小倉細川藩は今福における佐竹軍の苦戦を「佐竹由(油)断と存じ候事」と評している(『細川家記』21巻)。
佐竹軍は梅津憲忠の独走を見てもわかるように、軍法が緩かった。先手は渋江がほぼ一人で采配していて、しかも自ら鑓を手に取る戦いぶりだ。そして不幸にも戦死してしまう。
逃げる兵は義宣の命令を聞き入れない。
これでは編成と用兵が機能するはずもない。
世間は苦戦の要因を「佐竹由断」にあると評した。
しかし佐竹家中の者が酷評に甘んじるわけにはいかない。自分たちも多大な犠牲を払って勝利をもぎ取ったからである。
このため佐竹氏は上杉軍の存在をあえて記録から外し、藩祖の沽券を堅く守ったのだ。
義宣自身も佐竹軍の名誉を守るため、「わざと負けて敵を引き入れるつもりだったのに、若い堀尾忠晴が横鑓を入れたので武略が失敗してしまい、家臣たちは討たれ損になった」と抗議して、三使が取りなしたという(元和元年(1615)『大坂物語』)。
副官の戦死まで想定内の「武略」だと主張するのは、言い訳としてもさすがに苦しい。
義宣・景勝の武功と秀忠の意外に広かった度量
ともあれ勝報を受けた徳川秀忠は、景勝と義宣を労った。
将軍の立場からすれば、佐竹軍が失った人命は、上杉軍の活躍と並んで尊いものだ。その馳走は称えられるべきだった。
それゆえ、秀忠は上杉家臣三名(水原親憲、須田長義、黒金泰忠)と佐竹家臣五名(戸村義国、梅津憲忠、信太勝吉、大塚資郷、黒澤道家)に感状を発給した。
上杉家臣の中には「殿様以外からこのようなものを賜るなど先例がない」と言って将軍眼前で感状を開くぶしつけな老将もいたが、秀忠は気にもしなかった。
かくして3人の使者から見下されていた景勝と義宣は、最盛期の面目を取り戻した。景勝の活躍があって敗北を免れた義宣だったが、それでも義宣が決死の覚悟で奮闘しなければ、今福の制圧は不可能だっただろう。
両家は関ヶ原以来背負っていた負け組側のレッテルを、ここに返上した。
秀忠が上杉と佐竹を「御先手」に任じて、激戦区に投入したのは、これが狙いのひとつだったのかも知れない。
秀忠の期待に応えた上杉・佐竹の武名は今もなお名高い。