謙信以来の「強い上杉軍」を率い、存在感があった景勝
上杉景勝は、かつての朝鮮出兵で実戦に関わることなく、関ヶ原争乱(慶長庚子の大乱)においても、敗者の側に立つことになってしまったが、それでもその武威は当時から高く評されていたようである。
なぜだろうか。
ひとつは、景勝の軍隊に謙信以来の伝説的な編成と用兵が生きていたからだろう。だがそれだけで、名だたる歴戦の諸大名が地方の一武将に、一目置くことはあるまい。
また、この景勝と並んで関ヶ原で負け組についてしまったもう1人の武将がいた。
その名を佐竹義宣という。「鬼義重」の息子で、豪勇の気質があった。もとは常陸、今は出羽の大名である。
今回は景勝と義宣の、最後の戦いぶりを見ていこう。
慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」である。
慶長19年(1614)10月、将軍・徳川秀忠は、豊臣秀頼の籠もる摂津大坂城を制圧するため、日本中の大名たちを動員させた。幕府軍は総勢20万。東西南北の名だたる武将が押し寄せる。
大坂冬の陣で「秀忠一番手」は伊達政宗、二番手が上杉景勝
秀忠は、名誉ある将軍の「御先手」に、一番・伊達政宗(陸奥仙台藩主)、二番・上杉景勝(出羽米沢藩主)、三番・佐竹義宣(出羽久保田藩主)を任じた。
60歳の景勝は、かつて敵であった政宗を、あまり好きではなかったが、義宣とは戦友のような意識を共有していたらしい。
このふたりと手柄を競い合うことになったが、どちらも申し分のない英傑である。
景勝は10月2日、米沢の地をたち、江戸に向かっていた。
この時はまだ戦争のため動いたわけではなかった。
将軍は諸将に命じて江戸城改修の作業を進めていた。
景勝にもその役が伝えられたのである。
その最中に大坂の不穏な動きが伝わってきた。
改修担当にいた諸将は、作業をやめてすぐ兵を連れて大坂に向かうよう伝えられた。
旅中の下野国鍋掛宿において、江戸在番の家臣たちに話を聞いた景勝は、執政・直江重光(兼続)に「本国へ戻り、すぐに兵を引き連れよ」と命じた。8日には兵を集める命令を受けた使者が米沢に着いていた。
9日、景勝は江戸に到着。秀忠に謁見した。
11日、家康は駿府を出て、軍勢を集めながら大坂に向かう。
15日、秀忠は旗本の軍列を細かく定めていた。二代目は周到な準備を行っていた。16日には軍法も定められた(『景勝公御年譜』)。