秀忠が遣わした軍監3人はみな景勝に恨みがあった
安藤正次は、関ヶ原の戦乱で西軍に父を殺されている(景勝は西軍、義宣は中立だった)。
伊東政世は、相模北条家出身で、上杉と佐竹には積年の敵意がある。
屋代秀正は、かつて景勝に所領を逐われた身である。
3人とも景勝と義宣に含みがあって、その態度は高圧的だった。
義宣は今福の地を観察した。
一本道となる堤の北側手前に今福村があり、そこに古屋敷が見える。そこには「百余」の鉄炮(鉄砲)兵が詰めている。
堤の上を渡る場合、狙い撃ちにされるだろう。
しかも堤の先々には矢来の竹柵が4つ程立てられていた。
細い道なので大軍は使えない。さりとて少数で進めば射撃の的同然となる。だが、ここを越えなければならない。なぜなら、その先には大坂に通じる片原町が待っている。片原町を制圧しなければ、今福を制圧したことにはならないからだ。
柵を破り、片原町を我が物として付城を築けば、佐竹軍は任務達成となる。敵将は矢野正倫と飯田家貞が、300人ずつの兵をもって防衛している。
短期決戦を仕掛ける場合、味方の鉄炮で敵の鉄炮を牽制し、その間に突撃隊が柵を壊して、制圧していくほかに策はなかった。
作戦当日、徳川陣営でまさかの仲間割れ
26日の早朝卯刻(午前6時前後)、まだ日の出も見えないうちから、急に鴫野方面が騒々しくなりだした。義宣は飛び起きたであろう。
3人の使者はまだ上杉陣中にいるはずだが、作戦開始時間についてまだ何の連絡もない。不審に思った義宣は、上杉陣に家臣の梅津憲忠を派遣した。
3人の使者がそこにいた。憲忠は「これは一体」と尋ねた。すると3人は悪びれもせず、「義宣、ご油断に候」と言い放った。それどころか逆に「とくと見られよ。もはや景勝はこの鴫野で交戦している。佐竹軍の動きが遅いのはどうしたことかな?」と聞き返してきた。
憲忠は怒った。
「時刻はそちらで決める約束だったはず。なのに、何も言ってこないからこちらから訪ねに参ったのです。急ぎ帰陣して今福の地を奪う段取りを致します」
すると3人は「すぐできるような口ぶりを。あれがたやすく落とせるとお思いか」と嘲笑った。