景勝は自軍の兵士を待たず伊達軍、佐竹軍と共に大坂へ

米沢からの軍勢は18日までに国許をたった。

23日には江戸に到着したが、景勝はこれを待たず、江戸在番の供回りと共に江戸を先発した。同じ先手の伊達政宗と佐竹義宣が同日に進発するので、これに同行したのである。

上杉軍は主君のもとへと足を急がせた。景勝はすでに駿河の秀忠と合流し、その麾下きかに列した。

11月6日、途中で後続の諸兵と合流した景勝は、重光に礼を言うことすらなく、ただちに軍令を発した。

上杉軍は「軍士甲冑を帯し、列を引く」ことにした。なんと、敵地からはまだ距離があるはずなのに、武装したまま移動し始めたのである。しかも小荷駄隊まで整列して、厳粛な様子で行軍していた。謙信以来の軍法であったが、このような軍隊は戦国時代にも異質であった。兵数は5000。

万全の臨戦態勢である。

景勝はその日のうちに山城国木津に着いた。

10日、伏見に到着した景勝はその翌日、二条城の大御所・徳川家康に謁見えっけんした。

12日、玉水で家康と秀忠に改めて謁する。しばらく雑談した後、家康は二条城に戻り、秀忠は伏見に移った。

しばらくして景勝ら将軍先手衆は、大坂城近くに布陣した。豊臣軍も要所を押さえていた。戦闘の日は近い。

25日、秀忠の使者が、景勝と義宣のもとにやってくる。

「上杉殿は大和川の南、鴫野しぎのへと陣替えすべし。佐竹殿は大和川の北、今福いまふくに陣を構えるべし」

いきなりの話であった。気軽なことを言ってくれると思ったかもしれない。

鴫野と今福──どちらもすでに大坂方の諸隊が布陣していたからだ。鴫野には井上頼次、今福には矢野正倫と飯田家貞がいた。上杉と佐竹にこれを同時制圧しろと言うのである。

翌日卯刻(午前6時頃)、冬のまだ日も昇らないうちから両軍は進攻を開始した。

大坂の陣・今福の戦い
大坂の陣・今福の戦い(写真=Blowback/CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons

大和川北側を任された御先手三番・佐竹義宣の激戦

さて、三番手の佐竹義宣について見ていこう。義宣45歳。将としてはまさに年盛りである。

25日、佐竹軍は大坂城へ迫った。

眼前に大海のような湿原が広がっている。今福の地である。湿地帯の今福で通路となるのは、大和川(幅約200メートル)の北側沿いに立つ一筋の堤だけであった。

この先の片原町に付城を築けば、大坂城を攻囲する橋頭となる。このため豊臣軍はこの地を全力で堅守するであろう。

今福堤が戦闘の要となることは必至であった。

そこへ秀忠からの使者(軍監を兼ねている)として、安藤正次と伊東政世と屋代秀正の3人が遣わされた。

彼らは義宣に伝える。

「今福の地をもって“付け城”とせよとの上意である! 明朝になれば、佐竹義宣と上杉景勝は左右に並んで、今福・鴫野へと同時に進発し、敵を駆逐すること。実行する時刻は明朝、我らより伝達する!」

「佐竹義宣像」、江戸時代
「佐竹義宣像」、江戸時代(画像=天徳寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons