コロナ禍の東京五輪が明らかにした「拝金主義」

風向きが変わった、もとい風が吹きはじめたのは、新型コロナウイルスの流行だった。パンデミックの到来で外出の自粛が強要され、人が集まるイベントが軒並み中止になり、マスクの着用が義務付けられた。命や健康を守ることが最優先課題となり、行動の自由が制限されるなかで、いまは五輪を開催している場合ではないと考える人たちが大勢を占めるようになった。

それでもIOCをはじめ、JOCや東京都など主催者側は開催へと突き進んだ。そのかたくなな態度から、五輪の実態が雪崩を打つように浮き彫りになり、1964年東京五輪の成功に端を発する五輪幻想は雲散霧消した。

ご存じの通り21年東京大会は、五輪が「アスリートファースト」を重んじるスポーツの祭典などではなく、主催者側による集金イベントに過ぎないことを明らかにした。猛暑の7月に開催する理由は莫大ばくだいな放映権を所有する米NBCへの配慮だといわれており、そのために生じた暑熱対策が「打ち水」「かぶる傘」「アサガオを植える」など信じ難いほど非現実的な方策なのには開いた口がふさがらなかった。

なりふりかまわず開催しようとする意図の裏には、莫大な利権が存在する。スポーツコラムニストのサリー・ジェンキンスが、ワシントンポスト紙でIOC会長のトーマス・バッハを「ぼったくり男爵」と称したように、五輪は徹頭徹尾「金」が目的だったのである。

一時的な夢や感動と引き換えに生活を壊していいのか

そのツケを払うのは当然のことながら開催都市を含む国家である。そこに住まう私たち、そして未来を担う子供たちに重くのしかかることを思えば、五輪の開催は一時的な「夢や感動」と引き換えに生活そのものを削り取る。

すなわち札幌五輪の招致に反対する意義とは、そこに住まう市民の生活を守ることであり、さらにいえば、ここ日本でいまを生きるわたしたちと子供たちの将来、つまりこの社会の現在と未来を健全に保つことにある。

これが、あの日の講演内容である。