慶應の優勝に隠れた高校野球の大問題
今年の「夏の甲子園」は、慶應義塾高校の優勝で幕を閉じた。名門校の優勝というだけでなく、慶應ナインの髪形や、応援のあり方などさまざまな話題がメディアをにぎわせた。
しかしその反面、高校野球に深刻な事態が進行していた。今季の夏の甲子園の実質的な予選である各都道府県選手権大会への参加校が40年ぶりに3500校を割り込んだのだ。
第1回大会が始まった1915年以来の地方大会の参加校の推移をグラフにすると以下のようになる。
夏の甲子園の前身、全国中等学校優勝野球大会は1915年、全国から73校が参加して始まった。10校が全国大会に出場し、京都府立京都二中(現在の府立鳥羽高校)が優勝した。翌1916年は115校が参加、全国大会には12校が出場し、慶應高校の前身である慶應普通部が優勝した。今年の優勝はそれ以来で、107年ぶりであることも大きな話題となった。
主催者の朝日新聞の大々的な報道もあって参加校は年々増加し、1933年には戦前最多の671校となる。戦後は、GHQ(連合国軍総司令部)が日本統治に利用しようと野球を奨励したこともあり1946年には早くも再開。1948年には学制改革で高校野球となる。
戦前の旧制中等学校進学率は30%前後だったが、戦後になると高校進学者は急増する。これもあって甲子園予選の参加校数も急伸し、1963年には2000校、1978年には3000校を突破。そして1990年に4000校を超えた。
参加校数は2002年、2003年の4163校が最多だったが、以後も2011年まで4000校を維持していた。しかし2012年に3985校と4000校を割り込んでから参加校数は減少し続け、新型コロナのパンデミックが起こった2020年には3589校となり(甲子園大会は未開催)、今年ついに3486校となった。
部員数も2014年の17万312人を頂点として、今年は12万8357人まで減少した。夏の甲子園の優勝校をたたえる「全国4000校、15万高校球児の頂点」という表現はもはや使えなくなっているのだ。