16世紀からの400年間は平和な時代だった

しかし、紀元前922年にイスラエル王国が分裂して衰退すると、ガザの支配者はアッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ(マケドニア)、ローマへと移り変わり、紀元後70年にはイスラエル王国の末裔であるユダヤ人たちがローマ人にこの地から追放されて、海外への離散(ディアスポラ)を強いられることとなった(本書の第一章を参照)。

1099年、聖地エルサレムの奪回を目指すヨーロッパのキリスト教勢力(十字軍)が地中海沿いの進撃路に位置するガザを占領し、これをガドレスと改名した。

だが、13世紀初頭に十字軍が敗退すると、パレスチナは再びトルコ系のイスラム勢力によって占領され、ガドレスの地名はガザへと戻された。そして、1516年にオスマン帝国がパレスチナの支配権を握ると、ガザ附近のアラブ人たちはそれから400年間、同帝国の治下でイスラム社会を築いて平和な生活を営んでいたのである。

悪化の一途をたどったパレスチナ難民の生活

1948年から49年にかけて戦われた第一次中東戦争(第三章を参照)でのエジプト軍の奮戦により、地中海沿岸のガザ地区は建国当時のイスラエルの領土には含まれず、暫定的に隣国エジプトへと併合された。

だが、辛うじてアラブ側の支配地に留まった狭いガザ地区には、イスラエル支配地域から逃れてきた大勢の難民が流入し、その数はパレスチナ難民全体の26パーセントに当たる、19万人に達していた。

それから18年後の1967年6月5日、イスラエル軍はエジプトに対する奇襲攻撃と共に第三次中東戦争(第五章を参照)を開始し、ガザ地区は再びイスラエルの占領下に置かれることとなった。

この戦争での大勝利により、イスラエルの国土は一挙に4倍以上へと拡大したが、ガザ地区では従来のパレスチナ難民に加えて、当初から同地に住んでいたパレスチナのアラブ人も、イスラエルの占領統治下で自由を奪われた生活を強いられることとなった。また、イスラエル政府は、ただでさえパレスチナ人の人口密度が高いガザ地区内にユダヤ人の入植地を次々と開設し、自国民のガザ地区への入植を積極的に推進する政策をとった。

その結果、ガザに住むパレスチナ人はますます狭い土地へと押し込められた上、条件のよい肥沃な土地は、ほとんどがユダヤ人入植者によって奪い取られていた。