家康は秀頼の後見人にすぎなかった
三成が佐和山に移ると3月13日、家康は豊臣政権の政庁である伏見城に移った。これを見た奈良の多聞院の僧英俊は「天下殿ニなられ候」と記すなど(『多聞院日記』)、家康が天下を統率しつつあると世間がみなしたのはまちがいない。
その後、事態が大きく動く。8月に上杉景勝と前田利長が国元に帰ると、9月には大坂で家康の暗殺計画が露見。家康は警護を厳重にするために伏見から軍勢を呼び寄せ、大坂城に入城。その後、西の丸を占拠して天守まで建てた。暗殺云々は前田利長らを排除するための捏造だともいわれ、大坂城入城は家康のクーデターだった可能性がある。
事実、暗殺計画の首謀者とされた前田利長は弁明が聞き入れられず、翌慶長5年(1600)に母の芳春院(まつ)を人質として江戸に送ることで、ようやく和睦している。豊臣政権の五大老の一画を占めた前田家は、事実上、家康に臣従したのである。同様に嫌疑をかけられた浅野長政も領国の甲斐(山梨県)への蟄居を命じられた。こうして家康は、五大老と五奉行の体制を骨抜きにし、自分に権力を集中させていった。
ただし、誤解してはいけない点がある。家康は秀頼の後見人にすぎなかった。『板坂卜斎日記』は「この節、家康公を天下の家老と敬ひ申、主人とハ不存」と記している。すなわち「西の丸に入った家康は『天下の家老』として敬われていたが、『(天下の)主人』と思われていたわけではなかった」(福田千鶴『豊臣秀頼』)。
豊臣政権を背負っての出馬
慶長5年(1600)になると、家康は上杉景勝の動きを問題にした。景勝は秀吉の生前に越後(新潟県)から会津(福島県会津地方)への国替えを命じられたが、五大老の職務が多忙で新領国の経営に時間を割けなかった。そこで国元に帰っていたが、2月に越後の堀秀治の重臣が、景勝は城郭や道路を整備し兵糧を蓄えるなど「謀反」の動きをしていると、家康に報告したのである。
それを受けて上洛を求めても景勝が応じないため、家康は会津征討を決定。6月16日にみずから5万6000ほどの兵を率いて大坂を発ち、7月1日に江戸に到着。7月19日に嫡男の秀忠が、21日には家康が江戸を発って会津に向かった。
家康のこの動きが石田三成らを刺激し、関ヶ原合戦につながった。だが、ここでまた、家康の会津攻めは「豊臣政権による上洛要請に従わなかった上杉景勝の征討ということであったから、まさに豊臣公儀を背負った出馬であった」(本多隆成『徳川家康の決断』)ことを確認しておきたい。
ところが家康と秀忠が江戸を発つころ、三成が会津へ進軍中の大谷吉継を誘って挙兵したという知らせが届けられたのである。家康も秀忠も江戸を発ちはしたが、今後どうするか、7月25日に下野(栃木県)の小山(小山市)で諸将の意思を確認することになった。いわゆる小山評定で、近年、この評定が「なかった」という説も唱えられているが、ここではあった前提で話を進める。