秀忠遅参の影響
家康は焦ったものと思われる。出陣を9月3日としながら1日に繰り上げ、東海道を急行して11日には清須に着き、14日には美濃(岐阜県西部)の赤坂に着陣した。こうしてなんとか15日の関ヶ原合戦に間に合ったが、秀忠は間に合わなかった。
秀忠にとっては上田城(長野県上田市)の真田昌幸攻略が重要な任務で、そこで時間を要したのはある程度仕方ないが、遅参の影響は大きかった。家康が率いる3万は防御的な旗本部隊で、徳川軍の精鋭は秀忠が率いる3万に集中していた。家康は「秀頼様御為」に戦った豊臣系武将たちのおかげで勝利したのだが、秀忠が間に合わなかったために、彼らの貢献度は増した。
家康は9月27日、大坂城本丸で秀頼に戦勝報告をした。前出の本多氏はこれを「家康はふたたび豊臣公儀を担って、今回の合戦はいわば君側の奸である三成らを除いたものであった、という建前のもとで行われたものとみなされる」と記す(『徳川家康の決断』)。
すぐに徳川政権になったわけではない
また、戦後は88の大名が改易、毛利や上杉ら有力5大名が減封となり、日本全国の総石高の3分の1を超える633万石が没収された。そして、その8割強に当たる520万石余りは豊臣系大名にあてがわれた。彼らの貢献による戦勝である以上、家康には致し方のないことだった。
また、このような領地配分では、領地宛行の判物や朱印状が発給されるのが普通だが、「豊臣家の大老」にすぎない家康はそれを発給できなかった。このため、領地を給付したのは家康なのか、秀頼なのか、判然としないことになった。
大坂には豊臣秀頼がいて、その権威は失われず、西国の8割は豊臣系大名の領土であり、関ヶ原合戦の決着はついても、家康は秀頼の臣下のままだった。家康が豊臣公儀に替わる徳川公儀をめざしたのはその後のことである。
3年後に征夷大将軍になり、その地位を2年で秀忠に世襲することで、徳川公儀の優位性は全国に示されたが、官位は秀頼のほうが秀忠より上だった。慶長16年(1611)には秀頼に臣下の礼とらせたが、家康の死後、朝廷が秀頼を関白に任ずる可能性がないとはいえない。天下が名実ともに徳川のものになるには、大坂の陣を経る必要があったのである。