一転して反乱軍に

会津討伐には家康の直臣のほか、豊臣系の武将が数多く参加していたが、笠谷和比古氏は、彼らは2つの類型に大別されるとする(『論争 関ヶ原合戦』)。

1つは「義務的動員」である。会津討伐は「豊臣公儀の名の下に行われる謀反人討伐を目的とした公戦であり、家康は豊臣秀頼の名代として進軍するのであるから、所定の武将たちは義務として動員され」る。対象地域の近くに所領がある大名に出陣義務が生じるので、この場合は家康が進軍する東海道沿いの武将が中心になる。もう1つは四国や九州などが領国の武将で、笠谷氏は、従軍の義務がないのに家康に与すると表明した「思惑つき従軍」と呼ぶ。

多くの豊臣系武将は豊臣政権の義務として出陣しており、三成が挙兵したからといって、家康は主従関係がない彼らに戦いを命じることはできない。だから小山で彼らの意思を確認する必要があり、その結果、三成らの挙兵という不測の事態への対処を優先すべきだ、という結論が得られた。

豊臣系武将たちは、福島正則の居城である尾張(愛知県西部)の清須城(清須市)をめざすことになったが、すぐ別の不測の事態が起こった。7月17日に三奉行が家康に背き、家康の非道を13カ条にわたって書き連ねた「内府ちがひの条々」を、三奉行連名の添え状をつけて全国の大名に発給し、さらには毛利輝元が大軍を率いて大坂城に入ることも決まった。

要するに豊臣政権によって、三成側の軍勢が正規軍、家康側は討伐すべき反乱軍と認定されてしまったのである。

「関ヶ原合戦図屏風」
「関ヶ原合戦図屏風」(画像=岐阜市歴史博物館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家康ではなく秀頼のために

小山評定の時点では、まだ「内府ちがひの条々」の知らせは家康側には届いていなかったが、その存在を知ったとき、とくに「義務的動員」されていた豊臣系武将たちは、家康の指示に従うかどうかわからない。だから、家康は動けなくなった。1カ月ほど江戸城に留まっている。

だが、清須城に集まり、家康の到着を待っていた豊臣系武将たちはしびれを切らし、公然と家康への疑問の声を上げていた。そこに8月19日、家康の使者の村越直吉が到着し、「おのおの手出しなく候ゆえ、御出馬なく候、手出しさへあらば急速御出馬にて候はん」と、家康の意思を伝えたという(『慶長年中卜歳記』)。

あなたたちが動かないから自分は留まっていたという、諸将を愚弄ぐろうしたような言い方だが、笠谷氏は「家康一流の計算があっての事だろう」と記す(『論争 関ヶ原合戦』)。事実、これが大いに効果を発揮したのである。

豊臣系武将たちは先を争って進軍し、長良川を渡って岐阜城(岐阜県岐阜市)を攻略。その知らせを受けた家康は、すぐに出馬するので、自分と中山道を進軍中の秀忠を待つように指示した。

豊臣系武将たちが「反乱軍」と認定されながらも、三成との決戦を選んだ理由は、福島正則の「秀頼様御為よきやうに仕るべく候」という言葉に象徴される。彼らはあくまでも三成を倒すことが「秀頼様御為」だと考えるから戦った。しかし、家康の到着前に彼らが決着をつけてしまったら、その後の家康の立場は弱まってしまう。