52歳で死ぬ前、源内は世間から理解されず憤っていた

もう一つの証拠とされているのが、源内が描いた奇妙な絵である。大田南畝(文人・狂歌師)が源内を訪ねて書を請うと、源内は最近得意の絵があるといって、すぐに描いてくれた。その絵柄は、一人の男が崖の上から小便をし、それを崖下の男が頭から浴びてありがた涙を流しているというなんとも判じがたいものだった。

そこからこの事件も乱心によるものと推測されているが、それ以上くわしいことはわかっていない。

しかし、ここで少し考えてみたい。こうした奇行を取りあげて乱心と即断してよいものか。彼はもともと怒りっぽいところがあり、晩年は特に感情が安定しなかったようだが、それだけで狂乱とまで言えるかどうか。

源内が晩年、周囲も驚くほど怒りっぽくなったのは、50歳に近づいたという歳のせいもあるだろう。だが、根本にあったのは国益にかける己の高い志を理解しようとせず、山師とそしる世間に対するものだったのではないか。

また、南畝に与えたへんてこな絵も、芳賀氏は「まったく意味不明」と断じているが、世の人間など、小便をかけられてありがたがっている程度のものだという彼一流の皮肉だったのではないか。たしかに諧謔かいぎゃくが少しストレート過ぎる気はするが。

自首から1カ月後、伝馬町の牢屋で非業の死を遂げた

では、なにが江戸の寵児を無益な殺人劇に走らせたのか? 酒の酩酊めいていによる喧嘩の上か、乱心か。故意か、過ちか。ひょっとしたら凶宅のたたりか。肝心のところはやはりよくわかっていない。

自首から一月ほど後、源内は伝馬町の牢内で病死した。この死因についても不明な点が多い。黙老の『聞まゝの記』には牢内で患った破傷風による病死とあり、今のところこの説が有力だが、後悔と自責から絶食して餓死したとかの説もあって定まっていない。

当時の伝馬町牢の環境は劣悪で、病をえて獄死する者が後を絶たなかったというから、源内が病死したとしても不思議はなかった。いずれにしても、鬼面人を驚かす非常の人は、最後まで世間を驚かせ続けて世を去ったのだった。

葬儀は杉田玄白、千賀道隆・道有親子、平秩東作へづつとうさくら親しい縁者の手で行われた。

石川大浪画「杉田玄白肖像」18世紀(早稲田大学図書館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons