エレキテルや数々の発明品から、戯作本や西洋絵画まで手がけたマルチクリエイターの元祖・平賀源内。作家の新戸雅章さんは「“非常の人”であった源内はその最期も非常だった。凶宅に引っ越した後、殺傷事件を起こし奉行所に自首。牢屋で病死したが、そのいきさつは謎に包まれている」という――。

※本稿は、新戸雅章『平賀源内 「非常の人」の生涯』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。

中丸精十郎画「平賀源内肖像」1886年(写真=早稲田大学図書館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
中丸精十郎画「平賀源内肖像」1886年(写真=早稲田大学図書館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

老中・田沼意次の時代、江戸中の有名人となった平賀源内

安永初年(1772年)、40代半ばに達した頃の源内先生といえば、江戸でも一、二を争う切れ者の本草学者(漢方薬などを扱う植物学者)。西に東にと飛び回る凄腕の山師。次々にベストセラーを出す人気戯作者、最新の西洋絵画を伝える気鋭の絵師、陶器から羅紗までを扱う産業技術家と、ハードルの低くなった昨今のマルチタレントなど吹っ飛ぶような大活躍だった。「近頃江戸に流行る者、猿之助、志道軒、源内先生」というわけである。

自他ともに認める天才で、自信家で、やけに鼻っ柱が強く、すぐに大風呂敷を広げる。『根南志具佐ねなしぐさ』、『風流志道軒伝』などの戯作では、聖職者、医者から学者、庶民の男女まで手当たり次第にこき下ろす。鼻持ちならない野郎のはずだが、その割に源内は人には嫌われなかった。

若い頃からその才気煥発かんぱつ洒脱しゃだつな生き方を愛され、江戸にも郷里にも、源内ファングループとも呼ぶべき支援者集団が形成されていった。不思議な人徳というべきだろう。

学者、文人との交わりも多彩だった。杉田玄白のほか、中川淳庵、鈴木春信、小田野直武、司馬江漢、平秩東作、南条山人、大田南畝なんぽ、千賀道隆・道有親子、さらには時の老中・田沼意次まで。まさに華麗なる人脈である。彼らはこの鬼才が次になにをするか、その天衣無縫の先走りっぷりを、はらはら、わくわくしながら見守っていたのではあるまいか。

本草学者から突如、戯作者に転身した時も周囲からの批判は少なかったようだ。彼らはあきれるより、むしろまた源内が何かおもしろいことを始めたと興味津々だったのではないか。まさしく源内は田沼時代の文化的ヒーローだったのである。そこには、武家と町人があいまって沸騰した天明江戸文化の成熟も見られるだろう。

源内の殺人は江戸市中を震撼させる一大スキャンダルに

常に新奇なものを求めて、日本全国をかけめぐった時代の寵児を、天は畳の上で死なせてはくれなかった。

安永8年(1779年)夏、源内は神田大和町から神田橋本町に居を移した。そこは貸金業を営んでいた神山検校の旧宅だった。検校は悪事を働いたかどで追放されて野垂れ死にし、その子も屋敷の井戸に落ちて死んだといい、幽霊が出るとの噂があった。いわば凶宅。そんな薄気味悪い家をあえて住まいに選んだところに源内の運気の下降があらわれていただろう。

果たせるかな、転居して半年もたたないうちに極め付きの凶運が彼を襲った。その年の11月、源内は自ら奉行所に出頭すると、驚くべき申し立てを行った。酒の上の過ちから人を斬り殺したというのである。この頃の源内は、江戸で知らない者がいないほどの有名人。その名士が引き起こした殺人事件は、江戸市中を騒然とさせ、一大スキャンダルに発展した。今なら連日ワイドショーを賑わす大ニュースになっただろう。