江戸中期、マルチな才能を発揮して時代の寵児となった平賀源内。江戸時代の科学者についての著作がある新戸雅章さんは「源内は、輸入品を修復して売り出したエレキテルをはじめ、新しいものごとを産業に結びつけようとしたが、ほとんどうまくいかなかった。創業者の才能はあったが、経営者として欠けるところがあった」という――。

※本稿は、新戸雅章『平賀源内 「非常の人」の生涯』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。

木村黙老画「平賀鳩渓肖像」1845年(写真=慶応義塾図書館収蔵)
木村黙老画「平賀鳩渓肖像」1845年(写真=慶応義塾図書館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

300年前、高松藩に生まれ幼少期からひらめきを見せた

平賀源内が生まれたのは、江戸中期の享保21年(1728年)とされている。出生の記録は残されていないので、没年齢から逆算して推測した出生年である。誕生の地は四国東部の高松藩志度浦。現在の香川県さぬき市志度である。瀬戸内海につながる風光明媚な志度湾に面し、気候温順な土地である。村落内には四国八十八カ所霊場の八六番目札所の志度寺があり、その門前町でもあった。

源内の幼名は四方吉・嘉次郎。いみな(本名)は国倫くにともである。号は鳩渓きゅうけい。父白石茂左衛門(良房)はこの地を治める高松藩の御米蔵番を務める下級武士だった。待遇は一人扶持切米三石。とても生計は立てられない捨扶持ほどの俸給だった。このため白石家の本業は農業で、そのかたわら蔵番に出仕していたと見られている。

母は山下氏の娘。兄弟は兄が二人か一人、姉妹は一姉四妹または七妹とされている。二人の兄は早世し、妹も次々亡くなり、成人したのは源内と15歳年下の妹里与だけだった。

幼い頃から利発だった源内はさまざまなからくりを工夫して、家人や村人たちを驚かせたという。なかでも、「御神酒おみき天神」の掛け軸は大人たちを驚嘆させた。

天神の姿が描かれた掛け軸の前に御神酒を供えると、それを見て源内少年が仕掛けの糸を引っ張る。すると、裏側の赤い紙が薄い紙に描かれた天狗の顔の部分に来て、その顔が赤く変わるというものである。たわいない仕掛けといえばそれまでだが、源内のからくりの才を示すとともに、鬼面人を驚かす生き方の萌芽と見ることもできるだろう。

本草学や鉱山開発に熱中した源内だが、代名詞は「エレキテル」

源内の業績といえば、やはりこれを落とすわけにはいかない。言うまでもなく、彼の代名詞となった「エレキテル」である。

エレキテルとは何か。簡単に言ってしまえば、摩擦を利用した静電気の発生装置である。

人類が最初に生み出した電気は摩擦電気だった。古代には琥珀こはくを毛皮でこすって作っていた。これを機械的に生み出し、貯留するための装置が摩擦起電機、すなわちエレキテルである。最初に製作したのは真空の研究で有名な17世紀ドイツの科学者オットー・フォン・ゲーリケだった。その後、麻痺や疼痛など諸病の治療や見世物に使われるようになって西洋各国に広まったのである。