発想は良いが、事業を継続していく経営力はなかった
ここにおいて源内の創造的能力は大いに発揮された。ここまではよいだろう。しかし産業として成り立たせるためにはそれだけでは足りない。組織の立ち上げ、資金の調達、一定の生産量と品質の確保、販路の開拓など、さまざまな条件をクリアしなければならない。ところが源内の場合には、思い付くと、あとはなんとかなるだろうと、見切り発車的に着手してしまう。文学者の芳賀徹氏が『平賀源内』(1981年)で「能動的楽天主義」と呼んだ源内の癖である。創業者には必要な資質かもしれないが、経営者としてやはり欠けるところがあったと言わざるをえない。
源内の失敗の要因はそれだけではない。もうひとつの大きな要因はやはり時代の先を行き過ぎたことにある。つまり早きに失したのである。
天才ゆえ先進的すぎて世間に理解されないという悲劇
事業を立ち上げるのには早過ぎても駄目、遅過ぎても駄目とよく言われる。時代の半歩先くらいがちょうどよいというのである。
ところが源内のような天才的人物というものは、とかく時代の一歩も二歩も、いや三歩も四歩も先を行きたがる。凡人が求めるような半歩先の成功などでは満足できないのである。
当然、そのアイデアは人々の無理解という悲劇に直面する。しかし当人は自分の素晴らしい発想がなぜ理解されないか、わからない。ひょっとしたら創意工夫がまだ不十分だったのか。だとすれば、もっとよいアイデアを出せば認められるはずだ。そうやってますます過激で先鋭的になり、ますます見放されていくのである。天才の悲劇というしかないだろう。
しかも源内の時代、江戸の商業経済が発展したとはいえ、人々が産業の育成に手を貸すほどには社会が成熟していなかった。協力者と期待した郷里の知友、朋輩もその意識はまだ希薄で、源内の思いとの間には大きな隔たりがあった。
源内の孤軍奮闘もこのような状況に置いてみないと、その苦労は理解できないだろう。