教室の中の村上春樹

この連載の3回目(>>記事はこちら)に書いたとおり、春樹の小説は「作者の主張をつたえる媒体」ではありません。読者がそのなかに入りこむことで「現実のあちら側」と出会う「体験型アミューズメント」です。

そういう小説を書く春樹ですから、じぶんが考える「男の理想像」をしめすつもりはおそらくないはずです。春樹作品を体験することを通して、読者が自力で答えを探すことをのぞんでいると思われます。

先にものべたとおり、「大量生産の時代」が終わったあと、何を目標に成長すればいいのか、一般性のある答えは出ていません。「男の子の成長」という問題に対し、春樹は今のところ、たいへん聡明なとりくみかたをしているわけです。

ところで、これまでの成長モデルが無効になっているという現状は、学校教育にとっても大きな危機です。そんな中、春樹の小説は、小学校から高校まで、さまざまな種類の国語教科書に収録されています。

「体験型アミューズメント」という性質を考えるなら、生徒ひとりひとりが自己とむきあうきっかけにしてあげるのが、教材として春樹をつかうベストの道であるはずです。けれども残念なことに、春樹の小説は、教室の中でかならずしもそういう風にはあつかわれていません。

私はときどき、国語教育の学会や研究会に足をはこびます。そうすると、かなりの確率で、春樹作品についての発表を聴くことになります。春樹の小説は、中学校や高校の先生方から、かなり注目されているのです。

春樹の小説には、現実世界には起こりえない「あちら側」の出来事がしばしば描かれます。教科書に載っている作品を例にとると、『レキシントンの幽霊』では、語り手はケーシーという友人の家で、パーティを催す幽霊たちと遭遇します。『鏡』では、夜の中学校の校舎で、主人公はじぶんの分身を見ます。

春樹について発表する先生方はたいてい、

「語り手はほんとうに幽霊を見たのか? それとも夢を見ていたのか?」

「幽霊の出現が意味するものは?」

「主人公の分身は、彼のどのような面をあらわしているのか?」

といった問いを立てます。春樹の小説に書かれる「あちら側」の出来事は、それが起こる意味や理由が簡単にはわかりません。その解明を生徒にやらせるのは、ひとつの授業のやりかたではあることはたしかです。

ただし、これも第3回に書いたことですが、「体験型アミューズメント」である春樹小説は、どのように解釈しても、その人自身の春樹体験を語ることにしかなりません。春樹の作品のいたるところにある「謎」には、その読者にとっての「答え」しか存在しないのです。

春樹について語る先生方には、テクストを詳細に読みこみ、普遍的な「答え」を探そうとする傾向が見うけられます。そうした発表の、精密機械のような精巧さや、目をみはるような斬新さに、感嘆することもしばしばです。けれどもやはり、そこで語られているのは、その発表をした先生の「春樹体験談」であることがほとんどです。

ちなみに春樹は、じぶんの作品を分析的に読むことについてつぎのようにいっています。

「少なくとも僕の知る限りにおいては、僕の小説を分析して、どこかまともな地点にたどり着いた人はほとんどいません。もちろん僕自身にだって分析なんてできません。(中略)その小説を読み始める前と、読み終えた後で、自分の居場所が少しでも移動しているように感じられたとしたら、それは優れた小説なのだ、というのが小説についての僕の個人的な基準です。」(『「ひとつ、村上さんでやってみるか」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける490の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』)

春樹が小説を「体験型アミューズメント」としてとらえていることが、このことばからはっきりうかがえます。教員が中心となって、みんなで共有できる「答え」を探すことが、春樹小説のあつかいかたとしてふさわしいのか、疑問はどうしてものこります。