北条側が戦意を喪失したワケ

石垣山城には「一夜城」という呼び名があるから、簡易的な城と思っている人も多いだろうが、実際には本格的な城だった。それも、秀吉自身が5月20日に浅野長政らに宛てた書状に「聚楽又ハ大坂の普請を数年させられ候ニ不相劣様ニ(聚楽第や大坂城を築城したときに劣らないように)」と記したとおり、極めて豪華な城だった。

この時代、関東地方に総石垣の城はなかった。小田原城も総構をふくめて基本的に、土を掘っては盛って固めた城で、天守もなかったと考えられる。ところが秀吉は、小田原城を望む山上に、関東ではじめての総石垣の城を急ピッチで、しかし手抜きをせずに築き、瓦葺の天守まで建ててしまった。

石垣山一夜城から望む小田原城(写真=Mocchy/PD-self/Wikimedia Commons

6月26日、本陣を早雲寺から石垣山城に移した秀吉は、小田原城側の木々を伐採させた。一夜にして山上に現れた城を見た小田原方は、「かの関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる屋形出来けるぞや」と仰天(『北条記』)。北条氏直は7月1日に降伏を決意し、5日に滝川雄利の陣所に投降した。

小田原城は信長が先鞭せんべんをつけ秀吉が発展させた、天守がある石の城とは異なり、土で固めた旧式の城だった。それでも全周9キロの防塁は、最後まで豊臣軍を寄せつけていない。とはいえ、日本中から集められた22万もの大軍に囲まれれば、どんな城も持ちこたえることができない、ということである。

付言すれば、石垣と天守がない旧式の城であるがゆえに、新時代の石垣と天守を見せられれば、かなわないのではないかと戦意が失われる。実質的な防衛力以前に、見せられた新式の城にくらべると旧式だという引け目も、敗戦につながったといえるだろう。

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