日本最大の城だった小田原城
戦国時代に築かれた日本最大の城はどこか。面積が広いという点では、小田原城がほかの城を圧していた。全周約9キロにわたって総構と呼ばれる城壁が築かれ、水平距離は東西2.9キロ、南北2.1キロ。城下町全体がこの城壁に囲まれ、面積は約3.48平方キロメートルにも達した。
「どうする家康」の第38回「さらば三河家臣団」(10月1日放送)では、豊臣秀吉(ムロツヨシ)がこの小田原城を攻める。むろん北条氏には、この戦国最強の城に籠城すれば勝てる、という目算があったのだが、結果は敗れて戦国大名としての北条氏は滅亡する。それにしても、これだけの規模の城がなぜ落城したのだろうか。
小田原城は、明応5年(1496)から文亀元年(1501)のあいだに伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が入城して以来、関東に君臨した北条5代の本拠地だった。天文20年(1551)にこの城を訪れた南禅寺の僧の東嶺智旺は『明叔禄』に「太守の塁、喬木森々、高館巨麗、三方に大池有り、池水湛々、浅深量るべからざるなり」と記しており、太守たる北条氏康の城は塁に守られ、壮麗な館が建ち、水を湛えた池=事実上の水堀が三方を囲んでいたことがわかる。
永禄4年(1561)には長尾景虎(上杉謙信)が小田原城に侵攻したが、北条方の籠城作戦を突破できずに鎌倉方面に退却。永禄12年(1569)には、今度は武田信玄が攻め寄せている。信玄は城下に火を放つなどしたが、結局、攻めきれずに甲斐(山梨県)に撤退した。
対秀吉に備えてさらに守りを強化
このように、小田原城は早くから難攻不落だったが、上杉および武田の来襲を受けて外郭がさらに整備された。だが、本格的な整備は秀吉の存在を意識してからだった。
北条氏(当主は氏直だが、外交や防衛は父の氏政が担っていた)は、天正10年(1582)10月に徳川家康と同盟を結ぶと、西方の防衛を強化する必要性を意識し、北西の尾根筋を巨大な堀切で断ち切り(この「小峰山御鐘ノ台大堀切」はいまもよく残っている)、尾根の南面にあらたに堀を造成するなどした。
すでに述べた全周9キロにおよぶ巨大な防塁が築かれたのは、秀吉との関係が悪化した天正15年(1587)以降のことだった。平地では河川や湿地帯など、高台では尾根筋などの自然地形をいかして堀が掘られ、掘った土で土塁が造成された。
総構の堀の規模は場所にもよるが、ある地点の発掘調査の記録では幅16.5メートル、深さ10メートルほどで、堀底に高さが最大1.7メートルの堀障子がもうけられていた。堀障子とは堀を掘る際、一部を仕切り状に掘り残したもので、堀に入った敵の動きを制限するねらいがあった。そして堀の内側には高い土塁がそびえ、9カ所に城門が設置されていた。
そんな防塁が城下をすっぽりと取り囲んでいるのだから、簡単に落城させられないのはあきらかだった。