小田原城での戦闘は考えていなかったワケ

当時の小田原は東日本最大級の都市だった。それをすべて城壁で囲んだのには、もちろん理由があった。籠城戦が長引くことを想定したうえで、膨大な数の兵員が滞留できる空間を確保する必要があったのだが、それだけではない。

法雲寺所蔵の北条氏直の肖像画
法雲寺所蔵の北条氏直の肖像画(写真=PD-old-100-expired/Wikimedia Commons

兵糧を貯蓄する場所も必要だし、商人や職人を住居ごと保護して、武具のほか米や塩などを確保する目的もあった。総構の内側には田畑もあり、開戦後は多くの百姓も籠城した。これも食糧を確保する目的につながっていた。したがって、開戦後に城内に滞留した人員は6万におよんだという。

こうして万全の防衛体制を敷いた北条氏だったが、小田原城での戦闘はあまり想定していなかった。戦闘はもっぱら各地の支城にまかせ、そこで防御するうちに豊臣軍は兵糧が尽きるなどして早期に撤退する、というのが北条氏の読みだった。そうすれば戦後の和平交渉を有利に進められる、というわけだ。

このため、箱根山中の山中城(静岡県三島市)、伊豆半島の韮山城(同伊豆の国市)をはじめ、上野(群馬県)の松井田城(安中市)、沼田城(沼田市)、武蔵(埼玉県、東京都、神奈川県東部)の鉢形城(埼玉県寄居町)、八王子城(東京都八王子市)などに、一族や重臣を重点的に配置して防備を固めた。加えて、これらの城とのあいだの通信網も機能するはずだった。

想定外だった秀吉軍の7万人

ところが、天正18年(1590)3月1日に秀吉が京都を発って以来、戦闘の行方は北条氏の想定外だった。まず3月29日、箱根山中の山中城がわずか半日で落城する。

21年前に武田信玄を撃退できたのも、武田軍が箱根を越えるのに難儀したことが大きかった。それだけに北条氏は山中城を拡張し、各曲輪を障子堀で囲んで万全の体制をとったのだが、想定を超えていたのは豊臣軍の兵員だった。北条側の4000に対し、豊臣軍は左翼に徳川家康率いる3万、右翼に池田輝政率いる2万、中央に総大将の豊臣秀次以下2万。総勢7万人で攻められたからひとたまりもない。

豊臣軍にとっても、山中城攻めは今後の戦局を占う重要な戦いであったため、多勢に無勢で攻めた。その結果、先鋒を務めた一柳直末隊は壊滅し、直末自身も流れ弾に当たって戦死したが、犠牲さえいとわなければ攻め落とせるのである。

箱根山中の北条軍はこの敗戦後、小田原へ向けて続々と退却。それを受けて秀吉の本隊が箱根を越え、箱根湯本の早雲寺(神奈川県箱根町)に本陣を置いた。早雲寺は北条氏の菩提寺だから、そこに秀吉に居座られた北条側のプレッシャーは大きかっただろう。