丸裸になった小田原城

豊臣軍は東海道から伊豆を経由する軍と、北陸道から上野こうずけを経由する軍の二手に分かれていた。そして、北陸道軍も4月20日に松井田城をはじめ上野のいくつかの城を陥落させると、武蔵に南下して河越城(埼玉県川越市)や松山城(同吉見町)開城させ、鉢形城の攻撃がはじまった。

4月下旬には浅野長吉らが小田原包囲から外れ、相模(神奈川県)の玉縄城(鎌倉市)、武蔵の江戸城(東京都千代田区)のほか、下総(千葉県北部と茨城県南部)や上総(千葉県中部)の城を攻略。5月22日には武蔵の岩付城(埼玉県岩槻市)を落とし、鉢形城攻撃に加わった。

こうして6月14日に鉢形城が、23日に八王子城が相次いで落城。小田原城の支城で落ちていないのは、韮山城と武蔵野の忍城(埼玉県行田市)だけになってしまった。

その間、小田原城はどんどん孤立していった。各地との通信網も遮断され、小田原城内にいた高城胤則が4月15付で下総の須和田神社に宛てた印判状を最後に、小田原城以内と城外で通信が交わされた記録は途絶えている。一方、小田原城の目の前まで迫った豊臣軍が北条方の軍勢に投降を呼びかける「詞戦ことばたたかい」は盛んになり、投降する者が現れたため、北条方は守備兵に「詞戦に乗るな」と呼びかけたほどだった。

秀吉の周到な作戦

秀吉がこの小田原攻めに動員した兵員は22万にも達した。一方、北条氏は領国すべてから5万6000の兵を動員したとされる。この数は戦国大名による動員数としては驚異的だが、秀吉は全国の大名を動員でき、空前の22万になった。100年にわたる戦国時代には起こり得なかったこの状況を、北条氏は読めていなかった。

北条側は5万6000の多くを小田原城内に置き、残りを各地の支城に分散配備したが、これでは圧倒的な兵力の前にはまったく太刀打ちできない。

秀吉は巨大な防塁で守られた小田原城を正面から攻めても落城させるのは困難だと考えて、あえて支城から攻め落として、小田原を孤立させたのである。このため、6月22日に家康配下の井伊直政が、総構の東北面を攻撃したのを除けば、小田原城の周囲で本格的な戦闘は起きていない。

加えて、北条方に圧倒的なプレッシャーを与えたのは、秀吉が箱根の外輪山から続く尾根の稜線上の、標高260メートルの地点に築いた石垣山城だった。秀吉は早雲寺に本陣を置くと、すぐにこの山上に登って検分し、築城を命じている。