家康が取った意外な行動
その時、家康は床几に腰かけていましたが、信長から勝頼の首が届いたと聞いて、床几を下り、そばに控えた者に、「ともかく、相当の供養をしたうえで、据えよ」と申しつけ、その首に向かい、こう言ったといいます。
「こうなられたのも、すべて貴殿のお若気のためです」
家康の礼儀正しい言動が、のちにこの話を伝え聞いた甲斐・信濃の武士たちをして、徳川家に心を寄せる原因となった、といわれています。
ここにも家康の学びの成果、「あた(仇)を報ずるに恩を以てする」(『岩淵夜話別集』)がよく出ています。これまで長年にわたって、自分を苦しめてきた武田氏──信長の感情にまかせた応対と異なり、家康は恩讐(恩とうらみ)を超えた“和解の余地”を常に残してきました。
人は時の経過とともに、心境を変えるもの。家康は対人関係の「死地」に幾度も追いつめられながら、人生の出会いと別れ、再会は、すべて、自分を人間として成長させてくれるための“教材”と考えてきたのでした。彼が言うように、人間、一人ですべてができるわけはありませんから。
「わしこそ信玄公の子である」
信長は、武田家の遺臣たちを見つけ次第、ことごとくを処罰したのに対し、家康は彼らを信長に隠れて自領に招き入れて召し抱え、こう言いました。
「勝頼殿は信玄公の子に生まれられたが、(家を滅ぼしたのだから)信玄公にとっては、敵の子として生まれられたようなものだ。わしは他人だが、信玄公の軍法を信じてわが家のものとしたので、わしこそ信玄公の子のようなものだ。各々方は、わしを信玄公の子と思って奉公せよ。わしもまた、各々方を大切に思って召し使おう」
家康は、勝頼父子のなきがらを埋めたところに一寺を建立して景徳院と号し、田地を寄付し、信長が焼いた武田家の菩提寺、恵林寺も再建しています。