晩年の家康のさみしいつぶやき
「謀反など思いもよらぬこと。このことだけは父上によしなに伝えてほしい」と言い残して、信康は見事に腹を切ったといいます。このことは家康の生涯にわたる痛恨事となりました。
信康は、18歳にしてもうけた最初の男子です。いとおしくないはずがありません。
1600(慶長5)年、59歳の家康は関ヶ原に臨む前夜、雨の中で本営設えをすすめながら、
「この齢になって、これほど辛い目に遭うことになろうとは……。三郎が生きてさえいれば、このようなことを手ずから(自ら)せずにすんだものを……」
20年も前に死んだ信康の通称を口にして、声を湿らせたといいます。
家康にとって若くして死んだ信康は、追憶の中では10万の大軍を率いて、天下分け目の戦いをなし得る大器として育っていたようです。
それでいて不思議なことに、信康を死に至らしめた張本人ともいうべき酒井忠次、処刑を執行した大久保忠世を、家康は終生、左遷もせず、いささかの意趣返しもしないで、徳川家の柱石、股肱の臣として恃みつづけ、両家の繁栄すら図り続けました。
忠次に放った強烈なひと言
それらを踏まえて、『常山紀談』に紹介されている、次のような会話=家康と忠次の間で交わされたものを、お読みいただきたいのです。
高齢になり目を患った忠次が、隠居すべく家康に拝謁したおりのことです。
「これからは、わが子家次を、どうぞよろしくお願いします」と忠次が言ったところ、家康は、「お前でもわが子を可愛いと思うとは不思議なことだ」と言ったといいます。
一般には、信康を殺したも同然のお前(忠次)が、自分の子をわしに頼むのか、と解釈されていますが、筆者はこのおりの、家康の表情に注目してきました。家康はどのような顔をして、このセリフを口にしたのでしょうか。
おそらくは満面に微笑を浮かべながら、何のわだかまりもなく、この一言が言えたのではないか、と想ってきました。その方が彼の勉強の成果に合っています。
現に忠次はその後、謀叛の片鱗も見せず、子孫は荘内藩主となって、明治維新を迎えています。