遺骨行方不明の要因2「米軍による壕の閉塞」

米軍が占領下の硫黄島で行ったことは、基地化に伴う地形の変化だけではなかった。報告書にはこうあった。

〈兵力密度が大であつた関係上、洞窟は、全島至るところに構築されている。しかしながら、それは、米軍による掃蕩戦の当時から、多分戦後にもかけ、(中略)入口を閉塞されたのが大部分なので(中略)小官等が内部を調査し得たのは、洞窟の数からいえば一部に過ぎない〉
〈米軍による掃蕩戦から終戦後にかけてのごうの閉塞作業は(中略)ほとんど『しらみつぶし』といつてよい位に残らず行われた〉

硫黄島は総延長18キロメートルにも及ぶ地下壕が築かれたとされる。「友軍ハ地下ニ在リ」という硫黄島発の電報も伝えられている。そのため、地下壕内も遺骨捜索の対象となってしかるべきだと調査団の3人は考えていたが、すでに多くの壕が塞がれていたのが実情だった。なぜ米軍は壕を「しらみつぶし」に塞いだのか。その理由は、後に別の公文書で僕は知ることになる。

壕を見つけ出す手がかりは敵弾の跡だった

米軍によって「しらみつぶし」に潰された壕を、調査団の3人は何を手がかりに見つけ出したのか。報告書に記されていた。

米軍によって多数の壕が塞がれていたことを伝える1952年度報告書(出所=『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』)
酒井聡平『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)

〈岩に残つた弾痕だけは、7年の歳月をもつてしても、到底消すことはできない。4万屯にものぼる鉄量を撃ち込まれたこの島の岩という岩には、それだけでも激戦の模様を十分知ることができる程度に弾痕が残つている。中でも、特にこれが蝟集しているところの下には先ず壕の入口があるものと見て間違いない。察するに、米軍が掃蕩戦当時、残存兵がいようがいまいが先づ(ママ)機関銃の猛射を入口めがけて発射したことによるものと思う〉

僕は、2019年に初めて遺骨収集団に参加した際、「首なし兵士」が見つかった壕「235I―2」を思い出した。壕の入り口は、多数の弾が撃ち込まれ、無数の穴が空いていた。その入り口付近で見つかった兵士の遺体は頭蓋骨だけが粉々だった。敵に囲まれ、手榴弾で自決したのではないかと推測された。

調査団を元部下のもとに導いたのは、元部下たちを死の淵に追い詰めた無慈悲な敵弾の跡だった。報告書の記述は、なんとも悲しいものだと僕は思った。

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