7年間で「戦禍の島」から「平和の島」へ
なぜ様変わりしてしまったのか。原因は複数記されていた。
一つ目は「ジャングル化」だ。報告書には〈この島は、目下非常な勢いで植物が繁茂しつつある〉と記載。焦土化した島の自然な緑化に加え〈米軍が近年大規模に種子を撒布した〉というネムの木が島全域に生えたこともジャングル化の一因になったようだ。ジャングル化により〈日本軍当時の旧道が全く跡形ないのは勿論のこと、その後米軍が掘開した道路も、交通に利用していないものは、殆んど徒歩で辿ることさえ出来ない程度〉になってしまったという。
島を変容させた二つ目の理由は、米軍による土地開発だ。〈7年の歳月と、加えられた人工の力は、この島を戦禍の島から平和の島へと復元し、又変ぼうせられつつある〉との記載がある。
僕が驚いたのは、次の一文だ。
〈玉名山は頂上が飛行場工事のため現存しない〉
「ランドマークの消失」に生還者は呆然とした
玉名山とは、死傷兵の多さから米軍が「肉ひき器」と呼んだ要塞群があった島中央部の激戦地だ。生還者の回想録などに多く登場する地名の一つだ。島全体を見渡せる摺鉢山と異なり、低い山だったが、兵士たちにとっては地理の目印になるランドマークだったのだろう。
僕はかつて、父が散った硫黄島での遺骨収集に捧げた戦没者遺児・三浦孝治さんからこんな話を聞いていた。「いつかの遺骨収集に、生還者が参加していた。彼は硫黄島に着くなり、真っ先にこう言ったんです。『玉名山がない!』って」。三浦さんは、そのときの生還者の驚きの表情を真似した。目を大きく開いて遠くを見つめ、口をあんぐりと開けた表情だった。
玉名山は戦後間もなくして忽然と消えた。山が一つ丸々なくなるぐらいだ。そのほかにも大規模な地形の変化があったのだろう。海外戦没者の遺骨収集は主に、生還者の記憶によって進められた。しかし、硫黄島においては、このような急速な島の変貌から、すでにこの時点で記憶に基づく捜索は極めて困難な状況に陥っていたのだ。