「辞書は言葉の海を渡る舟」

さて、冒頭に触れた「辞書」の話題に戻ろう。三浦しをんの小説に『舟を編む』というものがある(2013年には石井裕也監督によって映画化されている)。辞書の編纂者を主人公にした作品である。このタイトルには「辞書は言葉の海を渡る舟、編集者はその海を渡る舟を編んでいく」という意味が託されているという。

『怪物』には、保利が辞書を写真立てに見立てて、同僚の女性教師に伏見の行動を説明するシーンがある【図5】。伏見は、亡くなった孫とのツー・ショット写真をわざわざ早織の席からよく見えるように置いて、彼女の同情を引こうとするのである。

【図5】早織が座る位置からよく見えるように、伏見は写真立ての角度を調節する。(画像=「映画『怪物』予告映像【6月2日(金)全国公開】」YouTubeより)

写真立てにくわえて、伏見が吹奏楽部の顧問を務めていた頃の賞状を収めた額縁や、トロフィーを収めたケースなども容れ物のバリエーションをなしているが、ここでは深入りしないでおこう。

大量の文字情報が詰まっている辞書は、さながら言葉の容れ物である。そして、保利の誤植探しを支えているのは辞書に掲載されている言葉の「正しい」意味にほかならない。しかし、辞書による定義は唯一の正解ではない。じっさいには、言葉の用例が辞書の定義に先行する。そもそも、言葉は辞書に先行して存在しているからである。

辞書の編纂者は大量の用例を収集し、それに基づいて、ある言葉がどのような意味で使われるかを事後的に定義していく。誤用と言われていたものがいつしか市民権を得て辞書に収録されることもあれば、新たに使われるようになった言葉が追加されることもある。言葉の意味は時代とともに変わっていき、辞書の説明はそれを追いかける形で常に変化し続けていくものなのである。

「容れ物」の用途から逸脱する子どもたち

言葉が変われば、世界が変わる。これはフェミニズムやクィアの基本戦略のひとつである。「風変わりな、奇妙な」といった意味を持つ「クィア」という言葉自体、もともと同性愛者を侮蔑する際に用いられてきた。性的マイノリティたちがそれを逆手にとり、自ら名乗るようになったことで言葉の意味が変わったのである。そして、ゆっくりとではあるが確実に、世界はマイノリティの権利を踏みにじってきた負の歴史を省みはじめている。

保利に自らの偏見を気づかせる契機となったのは、子どもたちが書いた作文の添削である。依里の作文の鏡文字にチェックを入れていくうちに、各行冒頭の「横読み」に気づく。一列目の文字をつなげると「むぎのみなと」と読め、同様に、湊の作文の一列目は「ほしのより」と読めるようになっている。

なぜ、お互いの名前を作文に忍び込ませたのか。保利は、ずっと湊が依里をイジメていると思い込んでいたが、それが誤りだったことを知って慄然とする。

保利が課題として出したのは「将来の夢」についての作文である。大量の正方形のマス目が並んだ原稿用紙の見た目は、まさに「杓子定規」を体現しているかのようだ。しかしながら、湊と依里は想定された容れ物の用途から巧妙に逸脱し、そこに自分たちの秘密の世界を立ち上げたのである。それを「間違い」などと言える人間は、どこにも存在しない。