なぜ安倍元首相だったのか
私は、コロナ禍前後から散発し顕著な犯罪類型となっていた「拡大自殺」や「自棄による劇場型自爆テロ」への分析記事に加え、昨年の安倍晋三元首相銃撃事件発生以来、山上徹也について幾つかの記事を書き、テレビやニューヨークタイムズに至るまで、日本や海外のメディアにも求められるまま解説してきた。
なぜ山上は日本で自警的ダークヒーロー扱いされ、共感や賞賛の声すら湧き、減刑を求める署名運動が起きたのか。女性に至ってはなぜ彼に恋し擁護するような論調まで生まれるのか。そして意見した。
だが、生い立ちから銃撃実行まで、山上被告の心理的な移ろいを追っていく中に、私がずっと理解できない、論理的に欠けたピースがあった。
頭が良く、努力家でもある山上。40年超の人生をかけて凝縮した宗教2世としての恨みや自棄を向けた先が、なぜ旧統一教会へのめり込んでいった当の母親ではなく、教団関係者でもなく、安倍元首相だったのだろう。
コロナ禍や健康状態の問題で教祖や教団幹部の来日が当分見込めなかった、との本人供述がその理由とされたが、それはどうも十分ではなかった。だからといって、自分の家庭の崩壊や家族の死や窮乏という直接の痛み苦しみの原因として「元首相」は遠すぎる。政治家には自らの政治の責任があるとはいえ、宗教2世が人生の恨みを叩きつける相手として安倍元首相を選ぶのは、思考の飛躍ではないのか。なぜ賢いはずの彼が「ああするより仕方ない」との結論に到達してしまったのか。
ジョーカーに自分を「仮託」した
だが、本書は見事に欠けたピースを埋めてくれる。