なぜ秀吉は一気に総攻撃に踏み切らなかったのか

秀吉が、別働隊壊滅の報を聞いたのは、その日の昼頃です。

急遽、家康・信雄連合軍を捕捉・殲滅せんめつすべく全軍を投入。自ら2万の兵を率いて出撃しますが、日暮れになったので、小幡の城攻めは明朝と決め、やむなく龍泉寺川原に夜陣を張りました。

家康は夕刻、小幡城に入り、ここで敵の動向を見極め、攻め寄せてくればこの城で防戦しようと考えていましたが、間諜より秀吉軍が総力を挙げて進軍中と伝えられ、この城では防ぎきれないと判断して、夜半になって急ぎ小牧山に帰陣しました。

小牧山城(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

一方の秀吉は、翌朝に出した斥侯せっこうが、家康は早くも夜のうちに、小牧山へ兵を引き上げたと報告すると、兵を楽田に戻し、帰陣してから諸将に向かい、上機嫌でこう述べたといいます。

「長久手で家康の働きぶりを見たが、敵にしても味方にしても、あれほどの名将は、これから先も日本には出てこないだろう。このたびは勝利を失ったが、海道一の家康を、将来、長袴で上洛させることにしよう。その秘策は(すでに)この胸中にある」

おそらくはハッタリ、家康を逃した言い訳、演出であったかと、思われます。

常識的な感覚からすれば、大軍を擁する秀吉が、小幡を経由せずに、一気に小牧山へ殺到してもおかしくはなかったはずです。なぜ、彼はそうしなかったのか――。

怒りでは何も解決しない

秀吉が総攻撃に踏み切れば、一時的な勝利は得られるかもしれません。

しかし、決定的な段階を迎えるまでには、なお、さらなる歳月が必要となります。

天下にはまだ、群雄が割拠していました。秀吉と家康の対決は、漁夫の利を狙う他の大名たちの決起を促し、気づいた時には秀吉が獲得した、輝かしい“勢い”が、いつの間にか消滅していた、ということにもなりかねない状況でもあったのです。

己れの感情や体面を押し殺すのは、とても難しいことです。地位や名誉があればあるほど、なおさらです。

しかし、苦労を重ねながらここまではい上がってきた秀吉には、一時の激情がどれほどやっかいな連鎖反応を示すものなのか、身に沁みてわかっていたはずです(もちろん、学習してきた家康も同様です)。

秀吉が敗戦の屈辱から、兵力を駆使することなく立ち直るには、相手の家康をほめたたえ、己れをそれに勝る「大気者たいきもの」とみせるよりほかに、すべがなかったのでしょう。