桃太郎を16人の生徒が演じる不思議

たとえば、学芸会において、何人もの主役が入れ替わるというような不自然なやり方がとられることもある。桃太郎を16人の子が演じたといったケースさえある。それは、「なぜ、ウチの子が主役じゃないんですか?」といった保護者のクレームを恐れてのことだという。

でも、だれもが主役でなければならないのだろうか。サポート役は負け犬であり、犠牲者なのか。主役になれなかった人の人生は価値がないのか。そうだというなら、そのような価値観が多くの人たちに挫折感を抱かせることになる。

そうした価値観でいけば、俳優のなかでも主演俳優だけが価値があり、脇役の俳優はみんな負け組で価値がないということになる。演劇や映画の世界でも、俳優や監督だけが価値があり、それをサポートする道具係や照明係、メイク担当などの裏方は価値がないというのだろうか。

スポーツ観戦に行くと、応援団もチアガールも必死に応援している。主役はあくまでも選手だし、いくら応援団やチアガールが頑張ったところで、チームの勝敗には関係ないかもしれない。たとえ勝っても、選手と違ってヒーローにもヒロインにもなれない。だが、一生懸命に応援している人は、自分が主役かどうかといった自己中心的な構図でものごとを見ているわけではない。そんな打算よりも、一体感と役割意識で充実し燃焼している。

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そのように冷静に振り返ってみれば、わが子が主役に抜擢されなかったからといって大騒ぎする必要などないことに気づくはずだ。

わが子を注意するより学校にクレームをつける

夏になると、どこの学校でも熱中症になる生徒が出てくる。そこで、一定の温度より気温が高いときは戸外での運動をやめるとか、水分補給を心がけるなどの対策を取るところが多い。それでも、たまに熱中症気味の生徒が出ることがある。

その保護者が冷静であれば、本人に水分補給に気をつけるように注意したり、家でも塩分の補給を心がけたりといったことをして、いちいち学校にクレームをつけるようなことはない。クレームをつけるとしたら、部活の先生や先輩が部活中の水分補給を許さないとか、炎天下で長時間運動させるというような特別な事情がある場合に限られる。

ところが、そんな特別な事情もないのに、わが子が熱中症気味になったといって学校にクレームをつける保護者がいる。すると、学校側は、とくに落ち度があったとは思えないのに、戸外での部活を制限したりする。一人、あるいはほんの数人が熱中症気味になったというだけで、何の問題もなくふつうに部活をしていた数百人の生徒たちの行動が制約を受けるのである。

このような学校側の対応も、まさに過剰反応と言ってよいだろうが、保護者からの過剰反応とも言えるクレームを恐れるあまり、過剰な対応をしてしまうのである。