100メートル以上もバスを追いかける男の子
女の子は大きなスーツケースを持っているから、もしかするとこれから電車にでも乗って遠くに行ってしまうのかもしれない。だとすれば、別れを惜しむ気持ちもわからないでもないが、舞台はバスの乗降口じゃなくてもいいだろう。
私は車外マイクの音量を大きくして、「扉が閉まります! お下がりください!」強く催促した。すると、二人はようやく離れ、扉を閉めることができた。女の子は交通系ICカードをタッチすると、一目散に最後方の席(*3)に向かった。バスが動き出すと、まさかの事態が起きた。なんと、バスを追って、男の子が歩道を走り出したのである。
左のサイドミラーで確認すると、男の子が何やら叫びながら、手を振っている。女の子のほうもそれに応え、最後方の席から窓越しに大きく手を振っている。こんなドラマのようなシーンを生で見せられると、主人公の二人が盛り上がれば盛り上がるほど、エキストラである運転士の私やほかの乗客たちは「こいつらアホとちゃうか」と白けた気持ちになってくる。
男の子は10メートルほど後方を走っている。バスもスピードをあげる。早々にあきらめるだろうと思っていたが、若さゆえか、それとも彼女への愛の強さか、100メートル以上、粘り強く追走してくるではないか。
(*3)最後方の席:なかにはバス車内でキスをするカップルもいて、こういう場合もたいてい最後方の席に座る。ほかの乗客から見えない位置を選んだつもりだろうが、車内ミラーがあるので運転士には丸見えである。
別れの舞台として使うのは若い男女だけではない
もうすぐ次の交差点、信号は赤だ。ここで止まれば、男の子に追いつかれてしまうかもしれない。「早く青に、青になれ!」私は祈った。祈りが信号機に通じたわけでもないだろうが、信号は赤から青に変わった。その瞬間、私はアクセルを踏み込み、一気に男の子を引き離しにかかった。
少し進んでサイドミラーで確認すると、彼は立ち止まり、手だけを大きく振っていた。その後も後部座席から彼のほうを見ている女の子の姿を見ていたら、自分がずいぶんと大人気ないことをしたような気になってきた。若者の最後の別れくらい、もう少し温かな気持ちで見守る余裕があってもよかったのだろうか。
バスを「別れの舞台」にするのはカップルだけではない。日曜日の昼下がり、腰の曲がった白髪のおばあさんが乗り込んでくると、バスの外では中年男性が「それじゃあ、気をつけてね」と言って、手を振っている。おばあさんも名残惜しそうに手を振り返す。田舎から久しぶりに息子を訪ねてきたのだろうか。何歳になっても親が子どもを思う気持ちは変わらないのだ、などと想像が膨らむ。
もちろん、二人の関係性などはわからないので勝手な妄想にすぎない。でも、そんな妄想も少し楽しい。