※本稿は、和田秀樹『本当の人生 人生後半は思い通りに生きる』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
不合理な日本の高齢者バッシング
2000年前後だったと思いますが、当時、「小売の神様」と言われたセブン‐イレブンの鈴木敏文さんと対談したことがあります。
鈴木さんは、長い間、人類は消費に生産が追い付かなかったけれど、90年代に生産は消費を上回るようになった。これからも生産性は高まることはあっても落ちることはないだろう。さらに少子高齢化で消費は減る。どうすれば消費者に買ってもらえるかが大事な時代になったのだという意味の話をなさいました。
私も長年似たようなことを考えていました。消費不足なのに、生産性を上げろという声が当時(今でもかもしれませんが)高かったわけですが、それは豊作貧乏なのに、もっとハクサイをつくれというのと同じだと思っていたからです。
いずれにせよ、鈴木さんの言うことは当たっていたようで、欧米や東アジアでは、さまざまな職種で従業員の給料を上げることでマーケットが拡大し、経済も成長していったのに、日本だけは生産性をうるさく言うのに、従業員の給料をケチな経営者たちが上げなかったせいで、長期不況の解決の糸口が見えなかったのです。
こういう時代であれば、生産もしないで消費をしてくれる高齢者は神様のようにあがめられてしかるべきなのに、日本では高齢者バッシングが止まりません。
あるいは、生産しないで消費をしてくれて、しかも貯金が禁止されている、つまり国が支払ったお金を全額消費に回してくれる生活保護受給者も経済にものすごく貢献しているのに、やはりバッシングの対象です。
高齢者は堂々と遊んで暮らしていい
アリとキリギリスは、日本人の好きな童話の一つでしょう。かなり残酷な話です。勤勉なアリは冬場になっても、蓄えがあるので幸せに乗り切れるのに、遊んでばかりいたキリギリスは、冬場に飢えてアリに助けを乞うが、相手にされず死んでしまうという話です。
でも、現在のように消費不足、生産性過剰の時代であれば、働き者のアリは一生楽しみを知らずに死ぬということになるでしょうし、遊び人のキリギリスは、冬になってももの余りのために一生贅沢ができるということになるはずです。
歳をとったらしつけで身に付けた「今がまんしたら、後でいいことがある」という信念のようなものを捨てろと言い続けたわけですが、「働かざる者、食うべからず」という価値観も実は前時代的なものになっているのです。
高齢者は社会のお荷物のようなことを言う人がいますが、そういう人こそ、資本主義がわかっていない――たとえ外国の大学の准教授とかの肩書をもっていても――と思っていいのです。
定年になるというのは、労働から解放される意味があるわけですから、高齢者は堂々と遊んで暮らしていいのです。