道路に飛び出してバスを止めようとする20代の女性

ある日の夕方には、幼稚園くらいの子どもを連れた妙齢の美女と、50代後半と思われる恰幅かっぷくのよい男性の別れ。バスに乗り込んだ女性は男性の姿が見えなくなるまで手を振っていた。女性と男性にはかなりの年齢差がある。この時間帯に別れるなら、夫婦ではなく、不倫関係かもしれない。ワケあって一緒に暮らせず、月に一度だけ子どもを連れて彼に会いに行く……余計な妄想はとどまることをしらずに広がっていく。

彼ら、彼女らが扉付近で別れを惜しんでいても、心を鬼にしてバスを発車させなければならない。もし運転士がバスを発車させなければ、この人たちはいつまでもいつまでも別れを惜しんでいるのだろう。

小田急線の大和駅のロータリーから出発し、最初の交差点に差しかかろうとしたときだった。髪の長い女性が歩道から道路に飛び出てきて、行く手を阻むように手を振りながらバスを止めようとする。まだかなり若い。現代風のファッションで、20歳そこそこではないだろうか。緊急事態なのだと思い、女性の前でバスを止め、前扉を開けた。

「どうしましたか?」「W駅に行きたいんだけど、ここから駅までバスだと何分ぐらいかかるの?」一瞬、なんのことを言っているのか質問の意味が理解できなかった。駅まで何分? それって道路に飛び出してきて、聞くことだろうか。

車庫に並んだバス
写真=iStock.com/Wirestock
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強引にバスを止めてまで聞いたのは「バスと電車の料金」

「……だいたい30分ぐらいかかりますけれど」

不思議に思いながらそう答えると、「料金はいくら?」「……250円です」。ここは駅のロータリーを出て最初の交差点に向かう片側一車線の主要道路である。信号もない道路上で突然バスが停車したため、後ろのクルマは追い抜くことができず、後方でそのまま停車している。

「それじゃあ、W駅まで電車で行くとどのくらいかかるの?」

女性は平然として質問を続ける。私としては、後ろのクルマに迷惑がかかってしまうので、とりあえず左ウインカーの点滅からハザードランプに切り替えた。

「……10分ちょっとじゃないですか」
「電車ならいくら?」

女性は、お客を乗せた路線バスを止めた(*4)という意識がまったくなく、表情も変えずに次々と質問をしてくる。腹が立つよりも、なぜ彼女は運行中のバスを強引に止めてまで、このような質問をしてくるのか理解できなかった(*5)。駅で停車しているバスのドライバーか、バス案内所で聞けばいいのに……。

電車の料金はわからないと答えると、「あっそ」とだけ言って、スタスタと駅のほうへ歩いていく。バスの後ろには渋滞が起き、駅のバスロータリーから後続のバスも出られない状況になっている。はたから見たら、バスの故障か、前扉を開けて運転士が女性と話しているからなんらかのトラブルと思われるだろうが、女性はW駅まで電車とバスではどちらが早くて得なのかを聞きたかっただけなのだ。

(*4)お客を乗せた路線バスを止めた:運転中のバスを止められたことはほかにもある。バス停まであと150メートルほどの市道を走行中、学生風の男性が道路に飛び出してきた。バスを止めると慌てた様子で前扉を叩く。扉を開けると、息を切らせて「すみません。乗せてもらえませんか」と言う。どうやら急いでバス停に向かう途中、後方からやってくるバスを見つけ、このままでは間に合わないと判断して道路に飛び出してバスを止めたようだ。扉を開いて話を聞いてしまった以上、断ることはできず、「本来はこういうことは絶対ダメですからね」と注意して、今回限りと約束のうえで乗車してもらった。
(*5)理解できなかった:その理由の一端は「制服」にあるのではないかと思うことがある。バス運転士もそうだが、タクシードライバーや交通誘導員など、「制服」を着ている仕事を侮っている人は一定数いる。警察組織でも、キャリアは背広組、ノンキャリアは制服組と呼ばれる。制服を着ている人は「なんでも屋」で、無理難題を押しつけてもいいという意識が働くのではないか。元施設警備員の同僚・後藤田さんにこの考察を聞かせてみると、「警備員時代はもっとたいへんでしたよ」としみじみ語っていた。