ふとんに入っても、なかなか眠れない…

しかし、比例区との重複立候補はしていなかった以上、敗北は敗北として潔く受け入れようと腹をくくりました。負けたことから必ず何かを学びとらなければいけないと思ったんです。

かつての中選挙区制であれば、1つの選挙区で数人が当選します。水泳や陸上競技と同じように自分のペースを守り、結果を待ちます。しかし、小選挙区制は格闘技です。事実上の一騎打ちで敗北を喫するとボクシングでいうKO負けです。敗北感、挫折感は中選挙区制の比ではありません。

夜、ふとんに入っても、天井を見上げたまま、眠ろうにも眠れないんですよ。あきらめがつかない。なんで、こんな負け方をしたのか、と。わずか105票差であると思えば思うほど、108つといわれる人間の煩悩と同じくらいに、負けた理由が次から次へといっぱい思い浮かんでくるんです。

あの地域にもっと繰り返し演説しに行っておけばよかった、あの有力支援者の方にもっとお願いに伺っておくべきだった、顔なじみのあのご家族はなんで投票日に旅行へ行ってしまったんだろう、といった具合に、煩悩の数のように数え切れないほど負けた理由と後悔が浮かんでくる。

いくら惜敗率が高くても、負けは負けなのであって、容易に「次もがんばろう」などとは思えないものです。いっそグレてやろうかとさえ自暴自棄になりかかりました。

撮影=遠藤素子
政治家をやめようと思わなかったのか。そう尋ねると野田氏は「何度もなりかけましたよ、何度も」と話した。落選から約3年半、浪人生活を送ることになった。

落選当時の私は39歳と世間でいういちばん働き盛りの年齢で、2人の子どもは6歳と2歳、生活は一転して不安定になり、そのうえ所属していた新進党は、党内対立がつづいた末に党そのものが解党されてしまいました。

無職・無収入のどん底を支えてくれた50人

1990年代の後半は、金融機関による不動産業者らをはじめとするいわゆる貸し渋り・貸し剝がしが激しいころで、私が事務所として船橋市に借りていた5階建てのビルでも、1、2階の借り手の会社が潰れて、4、5階の会社は夜逃げして、3階の野田佳彦事務所だけがかろうじて維持しているという大変な状況に陥りました。

当然、私自身も無職無収入の身となったわけです。この苦境のどん底の時に助けてくれたのが50人の私の支援者の人たちで、中小零細企業の社長をはじめ、年金生活者の方もいました。

毎月、一人ひとりに「このような活動をしています」と報告に伺って、その場で「がんばってますね」と1万円の支援金をいただいて領収書を書いて手渡す、ということを、次の総選挙まで、3年あまりつづけました。本当にありがたいことでした。

たとえば、ご支援してくださる方であるなら、年会費12万円をまとめて銀行に振り込んでいただくという方法を採ることもできなくはなかったんですよ。それでも私は毎月お伺いするということを変えませんでした。

中小の会社であれば、社長本人に会えた時はすんなり話が進むけれども専務しかいなかった場合は支援金をいただけなかったり、個人のお宅であれば奥さんがいらっしゃる時は難しい顔をされたりという具合で、50人の方から1カ月に1万円ずついただくことの大変さ、尊さをいつも痛切に感じていました。

そのようにして支援してくださった方たちの半数くらいの方がもう亡くなられました。そういう人たちがいたからこそ、1票の大切さ、1万円のありがたさを身をもって私は知っていて、だからこそ総理大臣にまでなることができたのではないかと、いまは思っています。