「経営の神様」といわれている松下幸之助さんですが、小学校までの学歴しかなく、お金もない上に、病弱でした。だから、人から意見を聞くことを大事にして、聞き上手で衆知を集めた。衆知を募って、適材適所、人に任せることで零細企業を起こしていかれた。

私にとってのお師匠さんも、最初はマイナスばかりのところからスタートして現在の世界に冠たるパナソニックを一代でつくりあげられた。ないない尽くしなりに、やりようがあるのではないかという気持ちがあったからなんだと思いますね。

私にしても、最初から地盤・看板・カバンに恵まれて、父親が政治家であったりしたなら、つまらない世襲議員になったかもしれないし、まったく違う生き方をしたかもしれません。成功も失敗も、わからないものですね。

――その後、野田佳彦氏は、県議を2期を務め、国政へ打って出る。新党ブームを巻き起こす元熊本県知事でのちの首相である細川護熙氏の率いる日本新党の結党に参加し、1993年、中選挙区制での最後の衆院選で旧千葉1区で最多票を得て初当選を果たす。だが、非自民党政権が誕生するも、短命に終わる。

政党の離合集散が繰り返されている中、選挙制度改革も進み、小選挙区比例代表並立制が初めて導入された1996年の衆院選で千葉4区から新進党公認で2期目をめざすも、記録的な接戦の末、わずかな得票差で涙をのむ結果となる――

105票差で落選した衆院議員総選挙

大失敗でした。小選挙区比例代表並立制に変わった最初の選挙だったとはいえ、やはり小選挙区で勝たなければならない。重複立候補して比例代表の名簿に載っていれば惜敗率が高ければ復活当選できる。比例復活と呼ばれるものです。私は、重複立候補せずに退路を断ち切って立ちました。

NHKテレビの開票速報でも、開票率99%の時点でライバル候補に200票以上勝っていたんです。選挙の常識として、ここまで差があるなら逆転はない。さすがのNHK担当記者も「もう当確を出しましょうか」と言ってきました。「情勢の微妙な地区の開票がまだ残っているようなので、その結果を待ってからにしましょう」と私のほうから言ったくらいなんです。

インタビューに応じる野田佳彦氏
撮影=遠藤素子
公職選挙法に則った選挙では11勝1敗。唯一の敗北は105票差の逆転負けだった。

最後の最後まで待っていましたら、私の確定得票数は次点の7万3687票で、わずか105票差の逆転負けを喫することになりました。1位当選者と比べた惜敗率は99.9%近く、いまでも、衆院選小選挙区の惜敗率では史上4番目の記録であると聞いています。

開票が終わったあと、疑問票の判定作業を進めると、「がんばれ野田佳彦」「祈必勝野田佳彦」「毎朝ご苦労さま野田佳彦」といったように、候補者の名前以外のことを書くと「他事記載」という扱いになって公選法では無効になる票がたくさん見つかったそうです。

本音をいえば2票であっても3票であっても、それらを有効票としてカウントしてほしいと思いました。思いの込められた得票をいただきながら敗北に至るとは、何という非情であるかと泣くに泣けませんでしたね。