中学生の頃に買った『存在と時間』
積ん読は、人を変える。
自分は、なぜ世界に生まれたのか。そもそも、世界とはなにか。世界はなぜ存在するのか。世界は、いつ生まれて、いつ死ぬのか。
そんな疑問にとりつかれるのは、若いうちにはよくあることだ。
わたしもそうだった。中学生のころ、移転する前の、大店舗だった渋谷の大盛堂で、岩波文庫版ハイデガー『存在と時間』全三冊を買ったのも、書名だけで判断し、この本に答えがあると勘違いしたからだろう。
最初の十ページほど、読んだのだろうか。分かるわけがない。哲学の訓練をある程度積まなければ、大学生だってとても読めた代物ではない。
あきらめて本棚に放っておいた。しかし、捨てはしなかった。
積ん読したままで三十年。『存在と時間』は、十冊以上の参考書を脇に置きつつ、いちおう読み通されることになる。ドイツ語の原書とも対照し、読了するのに三年かかった。未来の自分への約束は、果たしたかたちだ。
いまだって、「とても読めた代物ではない」ことには変わりない。一生を賭けてハイデガーを研究する学者もいるなかで、自分の、いちおうの読みが正しいものだなどと、言えたものではない。しかし、読み通したことだけは事実だ。目は動かした。その一部には、深く共感できた。一部には反発した。特別好きないくつかの章句は、ドイツ語で暗唱できる。
これで、一般人の読みとしては十分ではないか。
ダンディズムに接近する、ひとつのテクニック
積ん読は、ファッションである。かっこつけである。そして、かっこつけこそ、読書の本懐である。
いま電車に乗ると、座席にいるほぼすべての人が、スマホをのぞき込んでいる。SNSなのかニュースなのかゲームなのか。全員が同じ姿勢、同じ動作をしている。とくに文句はないが、少なくともわたしは、その輪に加わりたくはない。電車に乗ると、意地でもスマホはいじらない。
スマホが、いいとか悪いとか言っていない。人生つらいことばかり。電車の中でくらい、好きなことをすればいい。ただ、わたしには、「みなと同じ」ということが、かえってつらい。居心地悪い。かっこ悪い。そういう感性が、昔からある。みなと同じ学生服、みなと同じ体操着が、いやでいやで仕方なかった。ほんの少し、差をつける。違うことをする。とっぽい野郎。
そもそも本を読むとは、「みんなと同じ」が居心地悪い人、いわば不良の行為なのではないかと思うときがある。みなと同じになるな。少し地面から浮いている。世間から遊離する。俗情と結託しない。つまりダンディ。
ダンディとはしゃれ者のことではない。一人でいられること、孤独を楽しめることの、謂いだ。気炎ですがね。
積ん読は、ダンディズムに接近する、ひとつのテクニックということにもなる。